おがちょのつぶやき日記

トロント日系セブンスデーアドベンチスト教会牧師のブログです。

タグ:宗教

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このところ、体調を崩してブログを休んでいました。
もうそろそろ大丈夫ですが、体調のせいかまだ肌の状態がよくないです。

その間に、大阪からダニエルさんというアメリカ人の方が1週間近く、
うちの教会に泊まっていました。もう15年ほど大坂方面に住んでおられて、
日本語がペラペラでした(大阪弁も)。

ダニエルさんは「自給伝道者」で、英語のキリスト教出版物を翻訳・出版して、
それを配りながら伝道しておられます。

よほどの信仰がなければ自給伝道は出来ないと思います。
それも海外ですから、そういう意味で、私にとって本当に尊敬できる方です。

私たちの教会で礼拝説教をしていただきましたが、その中の話で、
アジア諸国を中心に35ヶ国も周り伝道したと聞き、驚かされました。
教会の若者もいい刺激を頂きました。

そんなわけで、土・日の午後は、ダニエルさんが日本へ帰る前に
ソウルの案内をさせてもらいました。もう15回ほど韓国に来られているようですが、
観光では来ていなかったので、行っていない所で、基本的なところを廻りました。

まず本人の希望で、韓国で一番大きい本屋である「教保文庫」(改築オープンしたばかり)、
そして定番の観光名所「インサドン」、食事は韓国定食で、化学調味料を使わず、
韓国産の野菜だけを使っている「チリ山」で、ラストは時々行くサウナつき温泉の
「チンチルバン」でしめました。

ちょっと私の体調が悪く、きつい時もありましたが、
ダニエルさんの普段のご苦労を労うつもりで行かせて頂きました。

あと、普段聞くことの出来ないアジアでのキリスト教の伝道の実態を聞くことができ、
本当に興味深い時間を過ごせました。

いつも日本のために伝道してくださり、ありがとうございます。
ダニエルさん、少しはリラックスできたでしょうか?また来てくださいね~!

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『この苦しみはなぜ?』


石原都知事が「天罰」発言をして世論から非難を浴びた。
彼の考えは典型的な「因果応報」の考え方だ。
非難を浴びて1日で謝罪している。

アメリカの女子バスケットボール選手も、「震災は真珠湾の報いだ」
などと言って非難を浴び、謝罪したそうだ。

この二人の考えは、苦しみと悲しみ、絶望の中にある人の心の傷に、
さらに塩を塗りこむようなものである。どのような事情があっても
口にしてはならない言葉だろう。

しかし、今の政治家はどうなっているのだろうか。目を覆うばかりだ。
ある人が興味深いこと、というより「きつい」言葉を書いているのを読んだ。

それは、「日本の政治家のレベルが低いのは、今の国民のレベルが
そのレベルだからだ。政治家はその国民のレベルの人々しか出てこない・・・」

強烈な言葉である。しかし、この言葉にどれだけの人が反論できるだろうか?

石原知事の言葉は言うまでもなく論外である。多くの人々が憤慨するのは当然だ。
しかし、その人を自分たちのトップとして3期も選んでいた都民の良識も問われるべきである。
今の日本の政治もそうである。

しかし、批判は常に簡単だ。人の揚げ足をとればいいだけだからだ。
みな、自分は関係ないように振舞う。その繰り返しをしているにすぎない。
そこに希望はない。だからここでは非難をしない。


では、なぜこのような苦しみがあるのだろうか?誰かのせいなのだろうか?
「人々は神などいない、神がおられるならばこんなこと起こるはずがない」と叫ぶ。
彼らの心情を思い見れば当然のことである。

人は生まれ、死んでいく。一生の間、楽しみ、喜んだとしても、同じくらい、
いや、それ以上に悲しみと苦しみと涙が伴う。

歴史上、この問題を解き明かそうと、多くの哲学者や思想家たちが挑戦した。
だが、納得できる答えはでてこなかった。

そうして人々は、宗教にその答えを求めるようになった。
それでは、宗教はその答えを与えたのだろうか。これも十分ではないだろう。
多くの宗教がやはり「因果応報」の考え方を形を変えて持ってきただけだからである。

私は、旧約聖書のヨブ記に目を留めるべき時だと思う。
聖書の神は、苦しみの意味について、大切なことを教えている。

ヨブは正しい人であった。神様がサタンに向かってこう言われたほどであった。


「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、
悪に遠ざかる者の世にいないことを気づいたか。」(ヨブ1:8)


しかし、サタンは反論する。「ヨブが神を信じ従っているのは、
神が守っておられるからではないか・・・。その守りを取られれば、
ヨブはあなたをのろう」と。

そして、サタンはヨブの財産の全てを散らし、ヨブの子供たちの命を全て奪い、
彼自身の体にも耐え難い、極限とも言える病を与えた。

このヨブ記は、日本で苦しんでおられる方に慰めと励ましを与える
貴重なメッセージではないかと思う。ここだけでは書けないので、
時間をかけて何回かに分けて書こうと思う。


ここでのポイントは、サタンの存在である。悪魔とも呼ばれるサタンが
このヨブの災いの元凶であるということだ。実はここまでは、
他の宗教でも理解しているところがある。

問題は、そのサタンの働きを「人間の罪の結果」として、
簡単に考えてしまうところにある。そのはやまった、
誤った思想は、残念ながらクリスチャンの中でも見られる。
そのような考えの帰結するところは、結局、「原因は人間の罪だ」とする。
ここにも「因果応報」の考えが出てくる。

このように考える人の「神」は、弱い存在になってしまう。
サタンの業に対して何も手出しができない「無力な小さな神」として描かれてしまう。

ヨブ記には、神が全てをコントロールされていることがはっきりと示されている。

「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない。」
ヨブ記1:12

ノアの箱舟の大洪水はサタンがしたのではない。神が裁きとしてなされたのである。
またモーセの時代、だれが太陽の動きを止めたのだろうか。サタンにそんなことはできない。
神の神権を冒すことなど、できはしないのである。

また聖書は「災いは良き者の上にも悪しき者の上にもふりかかる」と記している。

この言葉は真実である。聖書の中で、心から神に従っている人が苦しめられ、
殺されている例は挙げるまでもない。旧約聖書の預言者たち、バプテスマのヨハネ、
12弟子たちの最後、初代教会の人々への激しい迫害。

それらを見ながら、「信じれば全てのことから救われる」とか、
「この世の災いから逃れられる」などと言う発言は、
世の中の薄っぺらな「ご利益宗教」と同じである。
聖書のどこにそんなことが書いてあるのだろうか。

主イエスは言われた。

「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」ヨハネ16:33

信じる者もなやみがあり、苦しみがある。
この現実の中に、主は、生きる力を与えると言われているのだ。

「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう」マタイ24:9

ヨブは、サタンに苦しめられるのを神によって許された人物として、
我々の前に明確に持ち出されている。

ヨブは、今回の日本の大震災に遭われた人々のように、
財産も伴侶も子供たちも全てを奪われ、想像を絶する苦しみの中にいた。

ヨブの友人たちは慰めにやってきたが、これらの苦悩を、
彼の罪深い生活の報いだと見なさせようとした。友人たちはヨブを神の前に罪ある者と決めつけ、
刑罰に値すると見なして、彼につらい思いをさせただけでなく、「神」ご自身を間違って描写した。

現在もヨブの友人たちが多くいる。友人の顔をして本人を苦しめるのである。
そのような考え方が、多くの宗教、そして教会の中からも出てくるのは本当に残念である。
それは石原知事と、プロバスケットの選手の「天罰発言」となんら違いがない。

では、神はなぜ人々の苦しむのを見ておられるだけと感じるのだろうか?
これは聖書全体を貫く中心思想に関係してくる。また私たちの通常理解では、
想像の範囲外にある。そのことは、次回に書き綴りたいと思う。


しかし、最後にヨブ記の終わりに記されている、ヨブ自身の信仰告白を見ていきたい。

「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、
あなたがたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、計り難い事を述べました。
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。ヨブ42:2-6

ヨブは、「なぜこの苦しみが?」という答えを神様から与えられなかった。
しかしただ、宇宙のすべてを統べ治めておられる全能の主の知恵と知識、力の前には、
いかに自分の考えが浅はかで小さなものであるかを思い知らされ、主に信頼し、
従うことだけが唯一の道であると悟るのである。

ヨブの疑問は答えられなかった。しかしその疑問はもうすでに疑問ではなくなり、
彼の中から消え去ったのであった。


次回に続く

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日曜日から水曜日まで、雪岳山(ソラク山)の麓にあるホテルで、
私の所属する教団の教区牧師会に参加している。

その牧師会には、韓国の牧師が約200人出席している。
いろいろな講義や会議があるのだが、昼食前に特別な祈祷会があった。

日本の状況が発表され、韓国の教区、教団から支援をするということが話された。
そして、200人の牧師がひざまずいて、2,3人に分かれて、日本のために
心を注ぎだして主に祈った。「日本を助けてください!」と。

朝や夜には、牧師たちが日本の地震の様子をテレビで熱心に見ていた。
ある韓国の牧師は、被災地のあまりの惨状に涙を流しながら見ていた。
「心が痛い…」と。

主がこの祈りを聞かれ、一刻も早く被災者の援助と、
被災地の復旧が行われますよう、心から願ってやまない。

今日の午後から牧師会に出かけることになった。
日曜から水曜日までの4日間だ。

私の所属する教区は、ソウルの東半分を管轄する「ECKC」。
East Central Korean Conferenceだ。
牧師は200人近くいる。

先月日本の全国牧師会に出る機会があり、仲間に会えて励まされたが、
今度はどうだろうか。韓国語ばかりのコミュニケーションで
問題が出そうな気がする。ストレスたまらなければよいが…。

特別講師を招いて、宣教の学びをするらしい。
その辺は少し楽しみだが、問題もある。なにしろ韓国語の名前は本当に覚えにくい。
皆さんが、ただ一人の日本人の名前を覚えるのは簡単だろうが、私の方は大変だ。
「キム牧師って、一体何人いるんだろうか?」と思わず素朴な疑問がわいてくる。

ともかく出発。無線ランがあれば、書き込みする予定。

東北地方の方々の今日一日の守りを祈りつつ。

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「異言と聖霊のバプテスマ」ついて以前から聞かれることが多かったので、
私の理解していることを書きたいと思います。

最初に「異言と聖霊のバプテスマ」については、教派による聖書理解の違いがあります。
基本的に私の教会では、「聖霊」についてしっかり教えられ、
その上で「聖霊を受ける」と信じてバプテスマを受けられた方は、
聖霊のバプテスマを受けているものと理解しています。


『ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」』使徒行伝2:38,39


私たちは、聖書の言葉をそのまま受け入れます。
聖霊のバプテスマは、上記のペトロの言葉を信じて従ったものは皆受けるものです。

もう一つ付け加えますと、使徒行伝の中で「ヨハネの悔い改めのバプテスマ」だけを受けた人々が、
聖霊のことを聞いて、霊のバプテスマを受けた時の状況があります。


『「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。』使徒行伝19:2-6


ある方は、異言を語ることを聖霊のバプテスマを受けた証だと理解されていますが、
それは、半分当たって、半分外れています。
上の聖句では「異言を語ったり、預言をしたり」とあり、必ず異言だけを語るとは記されていません。

また、パウロは『私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが・・・』と言ったのであって、「話せるようにしなさい」とか、「話すのが必要だ」とも語っていません。
むしろ異言に関しては、慎重に、誤解されないように語っているのが印象的です。

以上のことから、異言だけを聖霊のバプテスマを受けた証拠と見なすのは、聖書から見ていくと
難しいことが分かります。


さらに言うと、聖書では異言の賜物だけを特別扱いしていません。
そのように聖書には記されていないからです。もちろん、そのように捉えておられる方々が
いらっしゃることは存じておりますし、そのお考えをあえて否定するつもりもありません。
それぞれの解釈の違いだからです。ここでは「聖書にこのように書いてある」としか言えません。

でもただ、一点申し上げたく思うのは、全ての人が異言を話さないということです。


『12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。12:29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。12:30 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。』汽灰螢鵐12:27-31


パウロは、それぞれの人に与えられる賜物は違うということも語っています。
パウロが強調しているのは、イエス・キリストにある各自の働きの違いです。
その意味で、自分の霊のための異言ではなく、主に仕えるため、また他の人々に仕えるために
与えられた異言、またその他の賜物を大切なものとして強調しています。

そしてこの後に、最も優れた道である「愛」を持つように薦めていることは、
説明するまでもないことでしょう。


私は異言を話すかどうかは、公にしていません。
話すにせよ、話さないにせよ、今の時点でそれを言うべきことではないと考えています。

それは過去に、自分が受けた他の賜物について、不用意に他人に話したことで、
その人に躓きを与えたからです。これはその人に対する「愛」と配慮が欠けていた例です。
「異言を話せる」という方は、そのように考えたことがあるでしょうか。

私は牧師ですので、その点は気をつけすぎてしすぎることはないと思っています。

パウロの言わんとしていることをしっかりと理解するならば、
「愛」以外の何か特定の賜物を強調することは、危険ではないだろうかと考えます。


そして付け加えて申し上げるならば、私たちは聖書から、
この異言が他国の言葉であると信じています。


『2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』使徒行伝2:1-4

『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。』汽灰螢鵐13:1

『律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』/と主は言われる。」』汽灰螢鵐14:21

ここで語られているのは、2種類の異言です。
他国の言葉、そして御使いの言葉です。それ以外には、悪霊の言葉しか聖書には出てきません。

異言は、神様がその人の霊性を高める賜物です。
同時に、理性的、合理的なものであり、解き明かしの方が共におられるならば、
未信者に福音を伝える有効な手段だと信じます。


最後に、私が一番気をつけていることを申し上げます。それは「聖書には何とかいてあるか」です。
ベレヤの人々についてルカは、使徒行伝17:11でこう記しています。


『ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。』


さきほど申し上げましたように、私は異言を否定しません。それは、明らかに神様の賜物だからです。
しかし、その理解の仕方、用い方に関しては「聖書のみ」の姿勢が特に重要であると思います。


以上、簡単に書きました。異言を大切に思われておられる方で、
これをお読みになり、お気を悪くされたら申し訳なく思います。
また「違うのではないか」と思われるのであれば、ぜひ質問してくださればと思います。

皆さん、また訪問してくださいね。(^▽^;)

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