おがちょのつぶやき日記

トロント日系セブンスデーアドベンチスト教会牧師のブログです。

カテゴリ: クリスチャンライフ

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先週、秋夕(チュソク)明けに、
知り合いの日本人宅でミニコンサートがあった。

奥様がピアノ、お嬢さんがバイオリンを演奏された。
東京の音大で学んでおられるお嬢さんには初めてお会いしたのだが、
奥様とは今回で2度目だ。

私の子供が小さいので、最近コンサートに行く機会がなかったが、
久しぶりに生の演奏を聴くことができて感動した。
お嬢さんのバイオリンは若々しく勢いがあって、聴いていて気持ちがよかった。
でも、やはり奥様のピアノが素晴らしいと感じた。
今年の夏は、ソウルで日本大使館主催のコンサートでも演奏されたそうだ。

ミニコンサートには30人ほどの日本人が来られていたが、
演奏の後は、ちょっとした社交の広場になった。
来られている方々のほとんどは、日本企業のソウル駐在員の奥様方だ。
皆さんと、少しづつでも、お知り合いにならないとなぁ、と
牧師の私は、正直そう思った。

9月19、20日に、小澤征爾の指揮によるウィーン国立オーケストラの演奏があった。
残念ながら時間もお金もない私は行けなかったが、機会があったらぜひ行きたい。

ミニコンサートのピアノとバイオリンを聴いて思い出したことがあった。
カナダにいた時のことである。
私がいた大学に、バイオリニストの「五嶋みどり」さんが演奏に来られた。
でも、ちょうど中間テスト期間中だったので、ほとんどの生徒が来なかったのを覚えている。
五嶋みどり。1982年に11歳でニューヨーク・フィルと共演してデビューしたバイオリンの天才だ。

その頃はまだ10代だったはずだ。
私とそんなに歳が違わなかったのを覚えている。
その時の、彼女は自信に満ち溢れれていたのが印象的だった。

演奏会後に彼女と話をする機会があり、
「このあとカーネギーホールに行きます」との言葉を今でも覚えている。
しかし、それよりも強烈な印象を覚えたのは、
彼女の弾いた「ツィゴイネルワイゼン」だ。

度肝を抜かれた。
バイオリンの演奏は数多く聴いていたはずだが、どれとも全く違った。
テクニックは完璧だった(バイオリンを弾く友人談)。
私の席の近くで、大学のバイオリンの先生が、腕を組んで唸っていた・・・
世界の五嶋みどりのレベルの高さに驚いたのだろう。

その時以来、どんなバイオリンを聴いても、
五嶋みどりさんのバイオリンと比べてしまうのだ。
比べられる方は、大迷惑だろう。

でも、私の中でバイオリニスとは
今でも五嶋みどりさんだ。

彼女にも辛い時期があったと聞く。
それを乗り越えて円熟の境地に立っているであろう、
いまの彼女の演奏を聴きたいと思う。

彼女のバイオリンの恩師は、若い彼女に、
「音楽だけでなく、色々なことにトライし、心から感動しなさい」と
言ったそうだ。それが彼女の音楽の世界を広げることになるからだ。
だからこそ偉大な音楽家の演奏は、人々に感動を与えるのだろう。

クラッシック音楽は、神を讃えることから始まったと聞く。
偉大な作曲家・音楽家が神を求め、神を発見した感動がそこにはある。

私は牧師として、多くの人の悩みを聴く機会がある。
そこには、世の中に、そして自分自身に縛られて動けない人々がいる。
言い尽くせない痛み、悩み、悲しみ、不安で満ちている。
彼らの心は、恐れに縛られて、動けないでいるのだ。

唯一、彼らの心を解放する音楽があるとすれば、
それは、約2000年前に奏でられた本当の音楽、
イエス・キリストの言葉の旋律ではないだろうか。

『真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。』(ヨハネによる福音書8章32節)

真理とは、あなたを解放し、絶望から希望へ、悲しみから歓喜へと導く、
イエス・キリストの愛の歌声である。

あなたの心は自由だろうか? 本当に?
もし自由でないなら、心に飢え渇きがあり、埋められない心の穴があり、
進むべき道がわからず、生きることに空しさを覚えるならば、
この真理を求めてはどうだろうか?
決して失望はしないはずだ。
そこにあなたの求めているものがあるはずだから。

『イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である・・・」』(ヨハネ14:6)

これを読んでいるあなたが、真理を求め、道を見つけ、命を手にし、
本当の自由を得て欲しいと、心から思う。

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よく聞かれる質問で、「なぜ牧師になったのですか?」という質問があります。その度にどう答えるのか考えるのですが、今日は率直になぜ私が牧師になったのかをお話ししたいと思います。

私が23歳の頃、ブラジルの北にあるアマゾン川の河口の町、ベレン(ベツレヘムという意味)という所に学生宣教師として赴任しました。確か飛行機代が片道16万円で、乗り換え4回、2日間かけて行った覚えがあります。丁度日本の反対側になります。

ベレンのあたりは、赤道に近く、熱帯雨林気候で、とても暑い場所でした。私はそこにある日本人教会に住み込んで、田舎からベレンの町に勉強しに来ている日系人師弟(中・高校生)に日本語を教え、彼らが住む寮で(教会内にあり)働いていました。何も分からず働いていたので生徒との衝突もあり、色々大変な思いもしました。でも、そにいる間にクリスチャンとして年の浅かった私は、教会にあった多くの日本語のキリスト教関係の書籍を読み漁り、次第に聖書の知識を深めていきました。

しかし、そのような教会内での生活だけでなく、ブラジルではファベイラ(貧民街)と呼ばれる場所の悲惨さを目の当たりにし、自分の力の無さを嘆き、何をしにブラジルに来たのかと自問自答する毎日だったように思います。

ある日、教会にある寮の食堂から出るゴミを、表のゴミ箱に出そうとして、生ゴミの袋を2つ持って教会の門を開け、その金属で出来たカゴにゴミを入れました。そのまま帰ろうとしたその時、道の反対側から3人の3,4歳くらいの子供達が走ってきました。2人は男の子で半ズボンだけしか身に着けておらず、小さな汚いバックを肩に掛けていました。もう1人は女の子で薄汚れたTシャツとスカートだけ着ており、この子も裸足でした。3人は「わっー!」と言って近寄ってきて、汚い肩がけ鞄の中からボロボロの弁当箱を出し、私が今置いたばかりの生ゴミの袋をおもむろに開けだし、汚い残飯を弁当箱に詰め込みだしたのでした。その時、私が一番ショックだったのは、彼らのうれしそうな、本当にうれしそうな顔でした。彼らが弁当箱を残飯で満たし走り去った後、私はしばらくその場所から動けませんでした。

田舎を現地の牧師と回った時もショックなことがありました。そこは日本人移住者達が農場を切り開き、現地の人たちが多く雇われているという田舎の町でした。その田舎のメインストリート(もちろん土)を歩いていると、2,3人のきれいな服を着た小学校3,4年生くらいの現地の女の子達が労働者風の男性と話しているのを見ました。田舎では見かけないきれいな服装で、一緒にいた牧師に「彼らの家は裕福なのですか?」と聞くと、一言「あの子達は売春婦ですよ」と普通に答えが帰ってきました・・・。

もっとショックな話しが、多くあるのですがここでは書くことが出来ないのでこの辺にしておきます。
これが私が牧師になったこととどう関係があるのか?

それは、ブラジルに来て1年たったある日、私は来年の予定を考え祈っていました。自分ではカナダに戻って経済の勉強をするつもりでした。しかし同時にブラジルでの貧しい子供達のことを思い、その子たちをどうか助けて欲しいと神様に祈っていました。

その時、不意に声が聞こえました。
耳元で聞こえたのか、頭の中に響いたのか覚えていません。
しかし、声があったのです。

「あなたが福音を宣べつたえる者となって彼らを助けなさい」
私は、それが即、牧師になることだと悟って「嫌です」と答えました。

するともう一度声があり、同じ言葉が繰り返されました。
「あなたが福音を宣べつたえる者となって彼らを助けなさい」と。
私は「他に優秀な人がたくさんいるじゃないですか、彼らを召してください!」

私は小学校のころから「どもり」始めました。「吃音」です。人前で話が出来ず、
電話に出ることも恐れていました。そして学校にもあまり行かなくなってしまいました。
小学校では全校朝礼というものがあります。その中で時々ゲームなんかをします。
例えば伝言ゲームです。一番前から伝言を伝え、一番後ろの生徒が全校生徒の前で
伝えられた言葉を話すといものです。私は背が高く一番後ろでした。ですから
必ず前に出されました。
しかし、どもって言葉が出ず、やっとの思いで「忘れました」と言うのが精一杯でした。
そんなどもりを抱えて20歳前半まで、自分に自信を持てず暮らしていました。
ですからそんな自分が人前で話すことがメインである牧師になんてなれるわけないと
思っていたのです。

しかし、声がもう一度ありました。
「あなたが行って、福音を伝えなさい」
私は、もはやその言葉に抵抗することは出来ませんでした。
泣き崩れながら、「はい、わかりました。私が牧師になって福音を伝えます。」
と神様に答えたのでした。

その時の決心が今の自分を形作ってきました。
神が命令されたのですから、私はただ従うだけでした。
日本に帰って神学校に行く時も、バイト代だけでは到底足りない学費が、
不思議な方法で全て返済されていくのを目の当たりにしてきました。

学校に入る前、私は無一文でしたから、初年度の費用のうち80万円をどうしも
工面できずにいました。「今年は無理だから来年行こう!」と考えていたところ、
東京のバイト先にカナダから国際電話がありました。
カナダの州立大学で教えておられた方で、ブラジルから日本に戻る前に、
カナダのバンクーバーの教会で知り合った方でした。

その方からの電話で、正直「なんだろう?」と私は思っていました。
それは、半年前からその方と連絡を取っていなかったからでした。
その方はこちらのバイト先を見つけ、バイトが終わる夜7時まで待って
電話を掛けてこられたのでした。
カナダのバンクーバーは夜2時だったと思います。

開口一番、その方は「昨夜、家内と礼拝をして祈っていましたら、神様の声が聞こえました。」
というのです。「はぁ~?」と思っていると、その方はこう続けました。
「日本にいる小川君を助けなさいと神様はおっしゃいました。つきましては、牧師になるための
援助をしたいと思います。必要なものを言ってください。」

私は、おそるおそる「初年度の必要経費が80万円不足しています。アルバイトで来年行こうと
思っているんですが・・・」といいました。
すると、「解りました。すぐに銀行へ80万円振り込みましょう。あなたは返す必要はありません。
ただ、神学校を卒業することが条件です・・・。」

他にも5年間の学びの中でお金がなくなり、学生口座が赤字になっている時、誰にもお金が必要と
言っていなかったのですが、匿名で100万円振り込まれていました。別な人からでした。

これらの話は、今まで私が体験してきたうちの、ほんの少しの体験談ですが、
このように神様は、命令に「はい」と答えた弱い私を、力強く今まで導いて下さいました。(終)

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先日の土曜日、ひょんなことから、
教会の祈祷院のオープニングセレモニーに
出れることになった。

大学のキャンパスから車に揺られて2時間、
山奥のそのまた上に、祈祷院があった~!!
だが、祈祷院の建物自体を撮影するのを忘れた~!!!!

という訳で、祈祷院の「祈りの部屋」で無邪気に遊ぶ
子供達の写真のみの掲載となりまする。あしからず・・・

祈祷院とは、そもそも教会(単立よりも教団のような形)で、
もたれている祈りの場所である。私のところはプロテスタントなので、
カトリックの修道院とはまた違う。修道院は修道士しか入れない。
祈祷院は、基本的に祈りたい者はだれでも行ける。

1枚目の写真の上にあるのは、チンチルバンらしい。(時間が無く見損ねた・・)
有名な韓国の極楽サウナである。ここは山奥で冬はとてつもなく
寒くなる。そこでこのチンチルバンに入って、普段の疲れを
とろうというものらしい。祈祷院の院長さんと食事する機会があったが、
特別製らしい。いたるところに設計のこだわりがあるのだ。
私も、向こう6年間で2、3回くらいは1週間ぶっ通しの祈りのために
この場所に来るはずだ(韓国の私の教団では、牧師は2年に1回ここに入る)。

あとの写真は祈りの個室である。
オンドルが利いたこの小部屋で、1日3回くらい、何時間かこもるのである。
実は数年前に、一度この施設の近くにある以前の施設を利用したことがある。
その時は、1週間誰とも話さず(朝・夕の合同礼拝で讃美歌は歌うが、食事の時も話さない!)、
祈りと聖書と思索にふけったことがある。
1週間、下界から遮断された場所で1人過ごすのは新鮮な経験であり、
心も体も癒されたのだった。

興味ある人、癒されたい人は参加されてみてはいかがだろうか・・・

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うちの学内アパートのそばに、小高い丘がある。
通称「祈りの丘」だ。

この大学が開学して100年になるらしいが、その昔、宣教師と韓国の信仰熱心な教会員ら
3人が集まって祈った場所らしい。ここが主の御心を現し、実現できる大学となるように
彼らは、熱心に祈ったそうだ。

もともとは貴族の庭園だったようだが、祈りによってこの大きな敷地を不思議な方法で
神は与えられたという。現在は、幼稚園から、小、中、高、大学、大学院まである。
施設も立派で、3000人収容の大ホールや、放送スタジオなどは、KBSも使いに来るとか。

その「祈りの丘」には、いつも多くの学生や教職員が祈りに来ている。
特に週末は多いようだが、平日でも、学生たちがその丘を登っていく姿が見える。
この間、朝4時半に目が覚めて、肌寒い中を防寒ジャケットを着て登っていったら、
丘の上にある大きな十字架の前で、女性が泣きながら祈っていた。

丘の頂上にはスペースがあり、長椅子もあるので、ちょっと離れて祈ったが、
彼女の祈りがあまりにも切実で(韓国語だからよくわからないが・・・)
ハンナの祈りのようだった。(注:旧約聖書サムエル記上1,2章に出てくる女性。
預言者サムエルの母。子供ができなくて悩んでいた)
彼女のあまりにも深い祈りと涙は、神との交わりの親密さを表しており、
そこにいることがいけないように感じたので、結局その丘を下り、まだ薄暗いキャンパス内を
歩きながら祈った。

あれから、何度か「祈りの丘」に行くが、いつ行ってもだいたい誰かに会う。
日本では祈祷会にさえ、人が来ることが少ない。
ここに日本と韓国の差を感じた。根本的な姿勢が違うのか・・・。

そして、いろんな批判はあれど、今の韓国がキリスト教国の理由がそこにあった。
やはり韓国は祈りの教会だった。

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