おがちょのつぶやき日記

トロント日系セブンスデーアドベンチスト教会牧師のブログです。

2011年03月

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「異言と聖霊のバプテスマ」ついて以前から聞かれることが多かったので、
私の理解していることを書きたいと思います。

最初に「異言と聖霊のバプテスマ」については、教派による聖書理解の違いがあります。
基本的に私の教会では、「聖霊」についてしっかり教えられ、
その上で「聖霊を受ける」と信じてバプテスマを受けられた方は、
聖霊のバプテスマを受けているものと理解しています。


『ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」』使徒行伝2:38,39


私たちは、聖書の言葉をそのまま受け入れます。
聖霊のバプテスマは、上記のペトロの言葉を信じて従ったものは皆受けるものです。

もう一つ付け加えますと、使徒行伝の中で「ヨハネの悔い改めのバプテスマ」だけを受けた人々が、
聖霊のことを聞いて、霊のバプテスマを受けた時の状況があります。


『「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。』使徒行伝19:2-6


ある方は、異言を語ることを聖霊のバプテスマを受けた証だと理解されていますが、
それは、半分当たって、半分外れています。
上の聖句では「異言を語ったり、預言をしたり」とあり、必ず異言だけを語るとは記されていません。

また、パウロは『私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが・・・』と言ったのであって、「話せるようにしなさい」とか、「話すのが必要だ」とも語っていません。
むしろ異言に関しては、慎重に、誤解されないように語っているのが印象的です。

以上のことから、異言だけを聖霊のバプテスマを受けた証拠と見なすのは、聖書から見ていくと
難しいことが分かります。


さらに言うと、聖書では異言の賜物だけを特別扱いしていません。
そのように聖書には記されていないからです。もちろん、そのように捉えておられる方々が
いらっしゃることは存じておりますし、そのお考えをあえて否定するつもりもありません。
それぞれの解釈の違いだからです。ここでは「聖書にこのように書いてある」としか言えません。

でもただ、一点申し上げたく思うのは、全ての人が異言を話さないということです。


『12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。12:29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。12:30 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。』汽灰螢鵐12:27-31


パウロは、それぞれの人に与えられる賜物は違うということも語っています。
パウロが強調しているのは、イエス・キリストにある各自の働きの違いです。
その意味で、自分の霊のための異言ではなく、主に仕えるため、また他の人々に仕えるために
与えられた異言、またその他の賜物を大切なものとして強調しています。

そしてこの後に、最も優れた道である「愛」を持つように薦めていることは、
説明するまでもないことでしょう。


私は異言を話すかどうかは、公にしていません。
話すにせよ、話さないにせよ、今の時点でそれを言うべきことではないと考えています。

それは過去に、自分が受けた他の賜物について、不用意に他人に話したことで、
その人に躓きを与えたからです。これはその人に対する「愛」と配慮が欠けていた例です。
「異言を話せる」という方は、そのように考えたことがあるでしょうか。

私は牧師ですので、その点は気をつけすぎてしすぎることはないと思っています。

パウロの言わんとしていることをしっかりと理解するならば、
「愛」以外の何か特定の賜物を強調することは、危険ではないだろうかと考えます。


そして付け加えて申し上げるならば、私たちは聖書から、
この異言が他国の言葉であると信じています。


『2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』使徒行伝2:1-4

『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。』汽灰螢鵐13:1

『律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』/と主は言われる。」』汽灰螢鵐14:21

ここで語られているのは、2種類の異言です。
他国の言葉、そして御使いの言葉です。それ以外には、悪霊の言葉しか聖書には出てきません。

異言は、神様がその人の霊性を高める賜物です。
同時に、理性的、合理的なものであり、解き明かしの方が共におられるならば、
未信者に福音を伝える有効な手段だと信じます。


最後に、私が一番気をつけていることを申し上げます。それは「聖書には何とかいてあるか」です。
ベレヤの人々についてルカは、使徒行伝17:11でこう記しています。


『ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。』


さきほど申し上げましたように、私は異言を否定しません。それは、明らかに神様の賜物だからです。
しかし、その理解の仕方、用い方に関しては「聖書のみ」の姿勢が特に重要であると思います。


以上、簡単に書きました。異言を大切に思われておられる方で、
これをお読みになり、お気を悪くされたら申し訳なく思います。
また「違うのではないか」と思われるのであれば、ぜひ質問してくださればと思います。

皆さん、また訪問してくださいね。(^▽^;)

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『24:3 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」24:4 イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。24:5 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。24:6 戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。24:8 しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。」』マタイによる福音書24:3-8


 昨日の日本での大地震は、日本中の人々に大きな衝撃と、犠牲を強いるものでした。
そして私たちも心に深い悲しみと不安を受けました。今も多くの人々が家に帰れず、
食料や水にもことかき、寒さの中で震えています。また、日本だけでなく、世界中にも
別な意味でショックを与えました。これだけ発展した日本が、また世界最先端の地震対策を
誇っている日本が、これほどの被害に見舞われると言うことは、大きな驚きだったのでは
ないでしょうか。また日本を含め、近年世界で多発している大地震を見ながら、
世界中の人々の心の中に「終末」という言葉が浮かんだのではないかと思います。

 私も昨晩、インターネットで刻々と被害の状況が明らかになる祖国日本の状況を、
胸が引き裂かれる思いで見ておりました。宮城県仙台市は、つい数週間前に日本で
食事を共にした尊敬する牧師の教会があり、多くの友人も住んでいます。インター
ネットでは、その同じ地区の写真がありました。その教会の地区は火の海になって
いました。彼らの安否が本当に気になります。
 他にも、福島の教会の牧師とも楽しく話していましたが、仙台と同じく、連絡不
通で、どういう状態か全くわかりません。

 「終末」という言葉で思い出すものがあります。それは1972年、有名なローマクラブの
「成長の限界」というレポートが発表されたことです。この報告の中で、「世界の
人口増加や工業化、汚染、食糧生産の増加、資源の消費がこのまま続くと、今後100年
以内に成長は限界に達し、人口と工業生産が突然減少し始めて、人間のコントロールが
効かなくなるであろう」と主張されていました。それは、当時の経済成長に酔いしれて
いた世界の人々にとって、実にショッキングなレポートでした。そしてそれを証明するか
のように、その直後、1973年、世界は石油ショックの危機に見舞われました。

 現在では、ローマクラブの警告の真実性を疑う人はいません。砂漠化する地球、
深刻な食糧危機、飢餓問題、地球全体に広がる大気汚染、地球温暖化現象、爆発する
人口増加などの課題が次から次へと出てきて、待ったなしの状態になっています。

 ハワイの博物館に、「人類の墓」というものがあります。その墓にはこう書かれています。
「この種族は、自らの作り出した廃棄物と有害物と人口増加のために、2030年に絶滅した」
と書かれています。

「今回の地震は、私たちが自ら招いたものではないではないか」とおっしゃるでしょう。
そうです。これは私たちの生活から起こったことではないでしょう。しかし、聖書には
このことが前もって何度も警告されていました。

それが、さきほど聖書朗読でお読みした箇所です。その後でイエス様はこう警告されました。


『24:16 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。24:17 屋上にいる者は、家にある物を取り出そうとして下に降りてはならない。24:18 畑にいる者は、上着を取りに帰ってはならない。24:19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。24:20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。24:21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。24:22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。』マタイ24:16-22

この言葉は、イエス様はエルサレムが滅ぼされる時と、終わりの時代にイエス様が
返ってこられるときのこと、2つの時代を表していると言われています。今回の
日本での大地震の際、大きな津波が被害を甚大なものとしました。まさしく、
このイエス様の言葉に当てはまるように思います。津波が来ると聞いても、
時間がなく高台に逃れられなかった人は、津波の犠牲になってしまいました。

また次の言葉も、考えさせられます。


『24:36 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。24:37 人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。24:38 洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。24:39 そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである。24:40 そのとき、畑に二人の男がいれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。24:41 二人の女が臼をひいていれば、一人は連れて行かれ、もう一人は残される。24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。24:43 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。24:44 だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」』マタイ24:36-44

 ノアのことを皆さんは聞いたことがあるでしょう。神様はノアに箱舟を造る
ように命令されました。

 その頃、地球上では雨は降ったことはなく、洪水になるなどとは誰も考えて
いませんでした。そのようなときに、箱舟を造れと言われたら、私たちはノア
のように神様の命令に従えるでしょうか。

 箱舟は150メートルもあります。しかもノアは大工ではなく農夫だったのです。
他の人々は、この世の中のことに熱中していました。家を建て、色々な仕事を
して、商売をして、おいしいものを食べたり飲んだり、お金儲けをして、
楽な、幸せな生活を一生懸命追い求めていました。そんな中でノアは神様の命令
どおり、箱舟を造っていました。自分の人生と全財産をつぎ込んで、舟を造り、
家族と共にそこに入りました。

 雨なども降ったこともない時に、洪水になるという神様の言葉を聞いてそうした
のでした。世間の人がノアを見て笑っていたことは、簡単に想像できます。

 しかし、ノアが箱舟に入って戸を閉めたら、ポツンと雨が降ってきてそれから
降り続きました。彼は洪水が来るという神様の言葉をそのまま信じ、その準備の
ために箱舟に入りました。

 私たちクリスチャンは、昔からこのような日が来ると聖書から知り、多くの人に
伝えてきました。しかし、多くの人々はその言葉に耳を傾けることなく、
今を生きることに集中してきました。

 私たちはどうでしょうか?どのように生きているでしょうか。ノアのように
神様に従っているでしょうか?

 もちろん、今は箱舟を造る必要がありません。それはイエス様が箱舟をすでに
造ってくださったからです。その中に入れば大丈夫なのです。それが私たちの
信仰であり、終末信仰なのです。(くれぐれも週末信仰にならないように・・・)


『24:19 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。24:20 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい。24:21 そのときには、世界の初めから今までなく、今後も決してないほどの大きな苦難が来るからである。24:22 神がその期間を縮めてくださらなければ、だれ一人救われない。しかし、神は選ばれた人たちのために、その期間を縮めてくださるであろう。』マタイ24:19-22

 今回、宮城ではまだ雪が降っており、安息日になっています。少しでも早い、
被災者の方々の救出と普段の生活が戻るようお祈りしたいと思います。

 パウロはこう言いました。

『更に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が既に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。』
ローマ人への手紙13:11

 私たちは、目を覚ますときに来ています。今までの自分の経験や常識を
信じて歩むには限界が来ています。私たちの想像を超えることが起こって
いくからです。今回の地震の力は、日本の専門家たちが想定していた地震
の90倍の威力があったそうです。また、NZで起こった地震の180倍も
あったということです。

 また、日本で起こった地震の中では、1000年に1度の大地震だと専門家が
言っていました。私たちの想像を遥かに超えていることがわかると思います。

 しかし、聖書には世の終わりがあること、このような地震が必ず起こる
ことが、2000年も前にイエス様によって預言されていました。私たちは
今こそ目を覚まして、ノアのように忠実に神の言葉、聖書の言葉に従う
ときではないでしょうか。イエス様は、これが苦しみの始まりに過ぎない
といわれました。それを実証するかのように、昨晩、長野と新潟で震度6の
地震がありました。これからまだまだ続くのではないかと思います。

 今、日本の人々のためにお祈りすると同時に、私たちは自分の歩む道を
振り返り、またまだ神様を知らない人たちのために、聖書が記している事実、
世の終わりのあること、そしてその先にある、イエス様の再臨があることを
伝えていく必要があるのではないでしょうか。

 聖書の一番最初は、『初めに神が天と地を創造された』で始まり、聖書の
最後は、『以上すべてを証しする方が、言われる。「然り、わたしはすぐに
来る。」アーメン、主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべて
の者と共にあるように。』で締めくくられています。

 この世界は、神様によって創られ、イエス様が再び帰ってこられて、
私たちを天に迎えて下さることによって終わるとハッキリと書いてあります。
その時、死に別れた愛する人々との再会があり、私たちは一切の苦しみ、
悲しみ、涙から解放されて、永遠の命を受けるのです。

 どうぞ、新しい一週間を神の言葉をそのまま受け入れ、主と共に歩む
一週間でありますよう、そして日本の人々が、この未曾有の災害から一刻も早く
助けだされること切に祈るときでありたいと思います。

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毎週金曜の午前中は、礼拝後の昼食・夕食のための買出し日だ。
いつも大量に買い込みしている。なぜなら、大学生が多い教会である上に、
彼等はいつも夕方まで教会にいるので、夕食の分も用意することになるからだ。

彼らはよく食べる。本当に育ち盛りなのか何なのか分からないが、
胃袋がどれだけ大きいんだと、いつも不思議に感心する。
最近の日本の若者は小食というが、韓国の若者には当てはまらないらしい…

明日は、日本の中学校で教えていた頃の教え子が教会を尋ねてくる。
もう大学生だが、春休みということで韓国に来たようだ。
何か特別においしいものを作らねばと、意気込んで妻と共に買出しに向かった。

写真は、韓国では有名な「Eマート」だ。

 「現在の他教派との共通理解」


Q5.SDA教会に対しては、正統的なプロテスタント教会と認める人々とそうでない人々に評価が分かれますが、ルーテル世界連盟のように肯定的な評価がされる理由は何ですか?

A プロテスタントの基本三大原理は、\蚕颪鰺0譴凌仰と行いの規範とする「聖書のみ」、⊃仰によって義とされる「信仰義認」、聖職者と教会員との間に根本的な区別を認めない「万民祭司」です。

 SDA教会には、その信仰内容を簡潔にまとめた「セブンスデー・アドベンチスト教団信仰の大要」という文書がありますが、そこにはプロテスタントの基本三大原理が明確に表明されています。幾つかの点では聖書解釈上の相違点はあるにせよ、SDA教会は聖書とキリストによる救いに対する信仰において、自分たちと同じプロテスタント共通の基本原理に立つクリスチャンであると考える人々が増えているのはそのためです。



Q6.このようにSDA教会の信仰がプロテスタントの基本原理に忠実であるなら、ある人々がSDA教会を正統なキリスト教信仰に基づいていないとみなす理由はどこにありますか?

A SDA教会を同じ正統的なキリスト教信仰に基づくキリストのからだの一部であると考えるクリスチャンも増えています。しかし、主に次の2点が一般のキリスト教会の信仰と異なるが故にその正統性が疑問視されているようです。.札屮鵐好如次Ε▲疋戰鵐船好箸呂修量召猟未螢札屮鵐好如次第七日の土曜日に聖日礼拝をしています。△泙唇貳未縫リスト教の教派の多くが人間の霊魂は生来的に不滅であると信じているのに対して、SDA教会はすべての魂が本性的に死後意識を持って永遠に存在し続けるとは信じていません。
 
 このように第七日安息日をはじめ、条件的不死といった一部のキリスト教会(セブンスデー・バプテスト教会、日本アドベント・キリスト教団)を除き一般にキリスト教会では教えていない教義を信じており、それらが聖書に基づかないと考える人が異端として警戒しています。しかし、その教えが正統的かどうかの決め手は、ひとえに聖書に立脚しているか否かです。先入観や人から聞いたことでなく、果たしてSDAの信仰理解が聖書的かどうかを、今後このブログを読んでくださり、そこに示された聖書の言葉に基づいて検証していただきたいと思います。

「SDA信仰の正当性をめぐる近年の論議」

Q1.「SDA教会の信仰の正統性に関する記事が「タイム」誌に取り上げられ、米国のキリスト教会に大きな反響を呼び起こしたそうですが、その経緯と反響を教えてください。」

A カルト問題の専門家で、バプテスト教会のワルター・マーティン牧師が、SDA教会の世界本部を訪問し、多くのインタビューと、SDA教会の文献を広く調べて「アドベンチスト信仰の真実」(The Truth About Adventism, Zondervan 1960)を出版しました。
全米放送で有名な福音主義キリスト教界の代表的指導者ドナルド・バーンハウス博士も、マーティン牧師と同席してSDA教会世界本部の指導者と直接対話や取材を重ね、執筆を進めていきました。バーンハウス博士は1956年9月号の「イターニティ」の中で、SDA教会に関して「私たちはあまりに悪く言われてきた誠実な信仰者を公平に評価し、この方たちをエホバの証人やモルモンやクリスチャン・サイエンスなどの異端グループから除き、贖われた兄弟であるキリストの体のメンバーとして喜んで受け入れる」と記しました。1956年の「タイム」誌は一連の対話会議を、福音主義の保守派とアドベンチストの和解の時と報じました。


Q2.「マーティン牧師が、バーンハウス博士と共にまとめた本の内容と結論はどのようなものだったのですか?」

A 本は2部で、第1部はSDA教会の歴史と教理の紹介。神、キリスト、贖い、復活、再臨、救いの計画、人間、霊魂、教会、エレン・G・ホワイトの預言の霊などに対するSDA教会の見解がまとめられています。第2部は、それに基づく著者の検証、批判が展開されています。
 いくつかの点では、著者はSDA教会の聖書解釈と見解を異にしています。しかし序文では、「クリスチャンの信仰の土台となる救いについて他のクリスチャンと基本的に同意しているのであれば、彼らは同一の体の一部なのである」と記しています。これがマーティン牧師が7年間にわたって入手可能なすべてのSDA教会文書、世界本部で得た原資料、本部の正式回答書の検証、数百人のSDA教会のリーダー、教会員とのインタビューの結果得た結論でした。
 バーンハウス博士は、ビリー・グラハム博士と並び称される指導者で、マーティン牧師と共に数日間、SDA教会世界本部の指導者たちとの祈りと協議に加わりました。博士は、マーティン牧師著「アドベンチスト信仰の真実」の前書きにこう記しています。「セブンスデー・アドベンチストの信仰について研究した結果、ワルター・マーティンと私は、セブンスデー・アドベンチストは反キリスト教的カルトではなく、真実なクリスチャンのグループであるとの結論に達しました。この結論を私たちが「イターニティー」誌に発表したとき、私たちのように資料を検証する機会のなかった人々から、嵐のような抗議が寄せられました。私たちの見解はただ一つ、すなわちSDA教会の教義を私たちに解説してくれた指導者と同じように主に従っているセブンスデー・アドベンチストは、キリストのからだの真のメンバーとして認められるべきだということです」
 バーンハウス博士は、自分たちが聖書的でないと考える幾つかの違いを受け入れるわけではないと前書きしています。さらに博士は、SDA教会世界本部の指導者たちと2回にわたり、数日を祈りと討議に過ごした時のことを「聖霊は私たちの魂に、これらの人々は真実に神を敬う、キリスト中心の、聖書を愛するクリスチャンであることを証してくださった」と述べ、「願わくは私たち一人ひとりは主にその責任を負う者であることを覚え、主がそのからだのすべてのメンバーを尊敬と愛のうちに互いに引き寄せてくださるように」と祈りの言葉で前書きを結んでいます。


Q3.近年ルーテル世界連盟とSDA教会との代表者による公式な対話のための協議会が何回か持たれたそうですが、どのような目的で、どのようなことを話し合ったのですか?

A 相互理解を深めるために協議会を開くことを合意し、第1回会合が1994年11月1日から5日にかけてドイツで開かれました。それぞれの教派の信仰内容とその根拠を知り、偏見、軋轢があるとすれば理由を明らかにし、相互理解を深めるためです。それ以降も1998年のまでの間に、スイス、カナダ、米国などの会場でそれぞれの代表者が対話を重ねました。
 礼拝の日に関してSDA教会は、旧新約聖書が第七日安息日を聖なる日としているという確信から、救いの条件としてではなく、創造と贖いの記念としてこの日を尊守していることを、ルーテル教会は、聖書また長年にわたるキリスト教の伝統に基づき、週の初めの日に主の復活をあがめ、この日を礼拝日としていることを確認しました。
 両教派とも聖餐式、バプテスマの聖礼典を重視しますが、SDA教会は幼児洗礼が広く古代から行われてきたことを認めながらも、洗礼は本人の信仰を前提にすべきとの立場からそれを受け入れていません。その他にも様々な違いを互いに認めています。しかしこうした各教派の習慣、伝統、歴史から来る強調点の違いは、それがキリストの福音や救いの否定にならない限り、他者の存在を否定する理由にしてはならない事柄であり、相互に寛容な態度が求められます。
 ルーテル教会もSDA教会も歴史の完成であり「祝福に満ちた希望」であるキリストの再臨を信じ、聖書は霊魂の不滅よりも終末における体の復活を希望として指し示していることを確認しました。また、両教会とも一部の教会員に見られる再臨の日を定めようとする傾向は、キリストの体を建ち上げる上において益にならないこと、むしろ日毎の霊性の向上と奉仕を通して再臨に備えるべきことを確認しました。


Q4.これらの対話集会の結果はどうでしたか?この会議からどのような提案がなされましたか?

A 教理上の相違が存在することを認めながらも、互いのキリスト教信仰に対する献身を認め、相互の信仰に対する理解が一段と進んだことを確認することができました。ルーテル教会は国のレベルにおいても、地方レベルにおいても、SDA教会を「セクト」としてではなく、世界のキリスト教共同体の一員として遇するように薦めること、また人類の苦しみを少しでも軽減し、信教の自由の維持、牧師会の交わり、合同の祈祷会、聖書協会の支援などを通して協力していくことなどが確認されました。

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