「声をあげて言うべきこと」

『さて、大ぜいの群衆が集まり、その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので、一つの譬で話をされた、「種まきが種をまきに出て行った。まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ、そして空の鳥に食べられてしまった。ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった。ほかの種は、いばらの間に落ちたので、いばらも一緒に茂ってきて、それをふさいでしまった。ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ」。こう語られたのち、声をあげて「聞く耳のある者は聞くがよい」と言われた。』ルカによる福音書8章4¬‐8節

今日のお話の題は、「大声で言うべきこと」です。これは、8節にイエス様が「声をあげて言われた」というところから引用しています。他の訳の聖書では、「大声で」とか、「叫んだ」とあります。イエス様が、特に大声で叫ぶほどに大事なところではないでしょうか。

今日の聖書箇所は、よくご存じの場所であると思います。しかし私は以前、ある疑問を持ってきました。それは、ここを読むたびに、何か悲しい気持ちになるからでした。続いて、イエス様の解説を読んでいきましょう。

『この譬はこういう意味である。種は神の言である。道ばたに落ちたのは、聞いたのち、信じることも救われることもないように、悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである。岩の上に落ちたのは、御言を聞いた時には喜んで受けいれるが、根が無いので、しばらくは信じていても、試錬の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである。いばらの中に落ちたのは、聞いてから日を過ごすうちに、生活の心づかいや富や快楽にふさがれて、実の熟するまでにならない人たちのことである。良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。』ルカによる福音書8章11‐15節

私が以前、ここを読むたびに漠然と思ったことは、「自分はどの土地なのだろうか?」ということです。「心がかたくなになっている道端の固い土地なのだろうか?岩が多く、すぐに受け入れるが、またすぐに挫折してしまうような土地であろうか?あるいは、いつも周りの誘惑に負けて、成長ができない土地であろうか?果たして、自分は本当に良い土地になれるのだろうか?」そんな疑問がわいてきて、なかなか変わっていないように見える自分がなさけなくなったのでした。

しかし、ここで気をつけることは、4つの土地のタイプの人は、皆、神の「御言葉を聞いている」と言われているところです。でも良い土地の心は、同じように聞くが、「それを聞いて受け入れ」とあります。「御言葉を聞く」と「御言葉を聞いて受け入れ」では、根本的な違いがあります。「御言葉を聞く」とは、自分自身の意見や考えをしっかり持っていて、その上で御言葉を聞き、取捨選択をすることです。「御言葉を聞いて受け入れ」るとは、自分の考えがあって御言葉があるのではなく、むしろ御言葉に聞く、御言葉に自分が導かれていくことです。

道端とか、石地とか、いばらの中というのは、人間がみな持っているものです。では、よい地とはどんな土地でしょうか?イエス様は、良い地が、石なく、イバラがなく、やわらかい土であるとは言っておられません。御言葉を受け入れるとよい地になるのです。

よく、「私は忙しいから、あの人のような信仰は持てない」とか、「あの人は恵まれているから、性格がいいから、そんな状態になった」とか、「あの人は苦しい経験をしたからあんな信仰を持つが、私にはそんな経験がないから無理だ。」というように、私たちは畑の状態によって種の生長が左右されると思いやすいのではないでしょうか。でもそうではありません。御言葉を受け入れる態度によって、そこに良い地ができていくのです。その態度によって、実を結ぶか結ばないかが決まるのです。

種まきのたとえでは、ただ神を信じるか、信じないかが論点になっています。
マタイとマルコにも同じ記事がありますが、最後の種が何倍になるかについての違いがあり、実を結ぶ者の中での優劣が書かれています。マタイは「100倍、60倍、30倍」、マルコは逆に「30倍、60倍、100倍になった」書いています。しかしルカは、その優劣ではなく、ただ「100倍」とだけ書いてあります。これは、信じるか信じないかを問うているのではないでしょうか?

続いて、「あかり」についてのたとえがでてきます。これは、「種まきのたとえ」と同じ時に語られています。

『だれもあかりをともして、それを何かの器でおおいかぶせたり、寝台の下に置いたりはしない。燭台の上に置いて、はいって来る人たちに光が見えるようにするのである。隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう。』ルカによる福音書8章16‐18節

よく、「将来に希望がなく暗い」、「お先真っ暗だよ」という言葉をききます。そこには、光がありません。とても暗いのです。「あかり」とは、御言葉であり、光です。「器」や「寝台」とは生活を表しています。ですから、「あかり」である御言葉を聞いても、「器」や「寝台」などの日常生活の下においては暗く、力も知恵もないのです。それを上に掲げるときに、御言葉は私たちを照らし、慰め、励まし、支えてくださるのです。

『ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った。』

彼らのうちの4人は漁師でした。つまりプロです。湖を知り尽くしていました。他の弟子たちは、漁師ではなくても、ガリラヤ湖のことはよく知っていました。その彼らが「危ない、もう死ぬ、溺れて死んでしまう」とあせっていたのです。そして、肝心のイエス様はないで寝ている。マルコの同じ記事では、こう弟子たちは言っています。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」弟子たちは、自分たちがこんな危険な目にあっているのに、平気で寝ているイエス様を責めていました。

私たちも同じような言葉を発していないでしょうか。「こんなに苦しいのに神様どうして助けてくれないのですか?」「神様、どうしてあなたは何も言ってくれないのですか?」と。

『イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった。イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。」

弟子たちも、私たちも信仰がないわけではありません。問題は信仰が「どこにあるのか」ということです。間違ったところに信仰を置いていないでしょうか。主は言われます。

『主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。』詩篇121編3、4

イエス様は、いつもあなたを見守り、慰め、導き、力づけてくださいます。現状を憂うことはありません。ただ信じるときに私たちは多くの実を結んでいくのです。そして、主なるキリストは、万物をも統べ治めるお方なのです。

心を開き、主にすべてをゆだね、今日も歩んでまいりましょう。