おがちょのつぶやき日記

トロント日系セブンスデーアドベンチスト教会牧師のブログです。

2007年08月

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今週木曜日夜、約10日ぶりの韓国に帰ってきた。
日本を離れるのが辛いかなぁと思ったが、別にそうでもなく
家族、特に子供と離れることだけが心残りだった。


沖縄に来ていつも思うのは、米軍基地の多さである。
どこに行っても基地に面している。
沖縄の人に言わせれば、一番いいところは全部米軍のものだとか。
調べたら、沖縄県全体の10.4%が基地というから驚く。
まぎれもなく、米軍基地の島なのだ。
http://www3.pref.okinawa.jp/site/view/contview.jsp?cateid=14&id=1169&page=1

沖縄にいる間、妻の実家と道路一本挟んだところにある沖縄市役所に
ちょくちょく足を運んだ。出生届や、ATMがあるからだが、
ある日、「原爆展」と「沖縄戦(だったと思う)」が、市役所ロビ-
で開かれていたので見てきた。

被爆地の様子をはじめ、太平洋戦争末期の沖縄の様子を見ながら
心が重くなり、胸が締め付けられるように痛んだ。原子爆弾の悲惨さと人々の悲しみ。
また沖縄では、米軍基地がある限り沖縄の「戦後」が終わらないだろうと思った。


沖縄市から嘉手納基地までは、「ゲート通り(空港通り)」が
メンストリートになっている。そこは外国人店主が経営する店が並んでおり、
他とは、少し町並みが違う。(小さな写真がそれ)

そこに新しく、複合音楽施設「コザミュージックタウン音市場」なるものが
登場していた(大きな写真)。昔、沖縄市が「コザ」と呼ばれていた名残だが、
一昔前は音楽で有名だったそうだ。それらは、ロックや琉球民謡などだ。

そういえば、もう一つの通りのパークアベニューというすっかりさびれた所には、
信じられないが、昔は、「ハードロックカフェ」まであったとか。
今はそう言われても信じられないほど閑散としている。
当時、米軍兵の暴行事件が多発してこの辺に来る兵士が激減したのが原因だとか。
1970年にはコザ暴動があり、暴行事件に対する住民の不満と怒りが
爆発し、米国人の車が約70台焼き討ちにあった。

そのような歴史がある沖縄市ダウンタウンで、地域活性化対策として
この「ミュージックタウン」を建てて、もう一度人々をここに呼ぼうとしているのだ。

この施設のメインは、スタンディングで1100人を収容できるホールだそうで、
ロック、ポップスなどライブイベントを充実させるためホールの形、壁の材質、
音響機材など、音の響きの良さにこだわった造りらしい。
今回は残念ながらそこでのコンサートに参加できなかったが、
次の機会を楽しみとしたい。あと、ラジオでやっていたが、
ここは、営利目的でないなら、予約して、無料で演奏をやらせてくれるようなことを
言っていた。もし本当なら、音楽好きな若者たちは直行すべきだろう。

話は変わるが、その一階に「ウェンディーズ」と「すき家」が一緒になった店がある。
子供が好きなので、一度だけ家族でそこへ行った。日曜日の午後2時頃だったが、
店の9割はアメリカ人兵士や、軍関係者の家族連れだった。
一瞬、自分がどこにいるのか分からなくなった。
娘がハンバーガーを口いっぱいに頬ばりながら、隣のテーブルの黒人兵士4人組を
不思議そうにながめていた。妻が「私が小・中学生の時にはもっといたよ~」と、
言った。

そういえば、沖縄市は、映画「涙そうそう」にもちょくちょく出てきたように思う。
主人公がバイクに2人乗りして気持ちよさそうに走っていた並木道は、
家のすぐそばの「くすのき通り」だったし、長澤まさみの父親がトラムペットを
吹いていた店は、パークアベニューにある(多分・・)。

音楽関連だが、妻の兄が三線(サンシン)という、琉球三味線を引く。三線教室も
趣味でやっているが、仕事が終わると、よく飲み屋のライブで弾いている。
以前、沖縄のビールのコマーシャルにも出て、たまにFMラジオでも
DJしてるとか、してたとか・・・。いずれにせよ、次に来たときには、兄さんが弾く
三線を聴きつつ、一杯(勿論サイダー)やりながら、沖縄を感じたいと思った。

沖縄は、南国の明るい素敵な場所だが、過去の悲しい歴史や、
簡単に解決しない難しい問題も見え隠れする。

しかし、観光客には、沖縄の素朴で明るい人たちがそれを感じさせないのだろう。
そんな本土からの人々には見えない沖縄の姿がそこにはあった。

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沖縄へきて1週間がたった。
毎日が病院と妻の実家の行き帰りだ。
妻と赤ん坊に会いに行き、必要なものを買ったりする。
家では2人の子供の幼稚園の送り迎えだ。
義母が体調が悪いので、食事と洗濯以外は
子供の面倒を見ている。

先日、妻が赤ん坊と退院したので実家が急に賑やかになった。
市役所へ出生届も出した。
赤ん坊の名前は「希望」(のぞみ)と名づけた。
この世の中で人々の希望となって欲しいと願ってつけた。

今日だけは、希望を母に預けてこれから必要なものを買いに行った。
妻はまだ無理できないので少しだけの外出だった。
そんな中、「だいこんの花」というレストランで昼食をとった。

このレストランは、沖縄に3店あるようだが、おすすめである。
有機農法・無農薬の野菜を使用したビュッフェ形式のレストランである。
その品数は見ただけで50種類はあろうかと思える。
昼と夜とは少しメニュ-が違うようだ。
また季節ごとによってメニュ-はもちろん異なる。
沖縄料理が含まれた和食がメインで他の洋風のメニュ-もある。
詳しいことはホ-ムペ-ジを見たほうが早いだろう。
色んな種類の小さな皿があり、それらの皿を自由に選べて好きな
料理をとるのも楽しい。

ランチは大人1、450円、ディナー1、850円だ。
値段の価値は十分にあると感じた。体に優しい料理が多い。
味付けもまろやかで食べやすい。
ご飯だけでも4,5種類はあっただろうか。
水も何種類かあった。コ-ヒ-豆も有機栽培とか。

何もかも、口にも心にも体にもいい感じだ。
それぞれの皿が小さいので一口か二口で食べてしまう。
そのせいか、何回もおかわりできるのも女性にはいいと思う。
写真は、その時の2人の食事のもの。
沖縄によく来る人は、一度行ってみてもいいかも・・・。
安くておいしい、おすすめできるお店。

「だいこんの花」http://r.gnavi.co.jp/f049015/

8月6日月曜日に1年4ヶ月ぶりに帰国。
大阪経由―那覇行きのJALに乗ったが、関西空港で時間があったので
あちこち空港内を歩いてきた。

第一印象は「やはり日本はいいなぁ~」だ。
韓国に比べてコンビニの品数の多さに感動しながら、
日本のレジの接客態度に心地よさを感じる。
コンビニを例に出すのはどうかとも思うが、つまりそれほどいいという意味だ。
どこへ行っても何もかもが気持ちよく感じた。
かゆいところに手が届くというのはこういう感じだろう。
海外での不便さが微塵も感じられない。

日本を出て初めて日本のよさが分かるというが、
私が20代の時6年ほど海外生活をしたが、特別に感じることはなかった。
やはり少し年をとらないと分からないのだろうか。
ソウルで働いている同僚の女性が2人いるが、
2ヵ月ごとの学期間の短い休みに日本に帰っている。
今までは何故そんなに帰りたいのか理解できなかったが、
久しぶりに日本へ帰って少し分かったような気がする。

那覇空港には夕方到着。1週間ほどの予定でレンタカーを借りて、
沖縄市にある妻の実家へ向かった。
妻は3人目を産んだばかりなので、
先ずは病院へ行くことにした。
この病院は産科では結構有名で、
近くに住んでいる人たちは皆ここで産みたがるとか。
何人もの子供が毎日産まれているらしい。
人気の優しい医者さんがおり、出産費も安く、融通が利くとか。
子供が産まれると「こんにちは~赤ちゃん~♪」
という歌が病院内で流れていたのが印象的だった。

妻とは1ヶ月ぶりの再会だ。感動の対面(?)を終えた後、
赤ちゃんが逆子で最後までひっくり返る事なく
今回は帝王切開になった話を聞かされた。
けっこう衝撃的だったのだ。

予定よりもだいぶ早く陣痛が来て、
夜更けの急な手術になったらしい。
しかも早く産まれた割に子供が大きかったようだ。
また、麻酔があまり効かないうちに手術がはじまり
「手術中、地獄の苦しみを味わった」と何度も聞かされた。

看護婦さんが「もう少ししたら麻酔が効き始めますから、そしたら手術を始めますね~」と
沖縄なまりで優しく語りかけているその最中に、主治医がメスを入れたそうだ。
「もう、切ってますけど・・」とあわてて言っても後の祭り。
あまりの痛さに頭が朦朧とたとか。

「イタイ、イタイ!」と訴えたそうで、局部麻酔だろうが追加で麻酔をしてもらったようだ。
だが痛みがほとんど変らず、手術が終わってすぐに足が自由に動いたらしい。
妻は術後しばらくしてからお医者さんに「麻酔が効かない体質の人がごくたまにいるからねぇ」と
言われた。数日後、親戚の人で似た状況の中で帝王切開をした人と話したが、
同じような痛みを体験したそうな。案外どこの病院でもそんなことがあるようだ。

その後、病院から詳しい理由を聞かせてもらった。
やはりすぐに手術しないと危なかった。
逆子で足が下を向いていて、そのままでは産めず危険だったのと、
逆子の状態が長く、頭の上部が平らになっていたため、結局は産道を通らなかったのでは、と
まぁ、でも母子共々無事でよかった。
妻は体力があるせいか、術後の回復が驚くほど早いようだ。
この病院でうちの子供が3人お世話になった。実は妻もここで産まれたのだ。
親子で縁がある病院だと思いながら、暑い沖縄の夜、
レンタカーを駆って子供達が待つ家内の実家に向かった。

アフガニスタンで韓国人クリスチャン達が拉致されて、今日で15日目になる。
いつになったら解放されるのかといつもニュースを気にしている。
教会でも何人か集まる時には彼らのために祈っている。

最初、牧師が殺された時に、人質の殺害はまだまだ続くなと感じた。
同じ牧師として色んなことを考えてしまう。

韓国のキリスト教団(プロテスタント)は現在、世界175カ国に約1万6000人の宣教師や
活動家を派遣し、その規模は米国に次いで世界2位という。

韓国にはプロテスタントを中心に、人口の約3分の1にあたる1500万人ものキリスト教徒がいる。
そのため、ソウル首都圏では喫茶店の数より教会の数が多いと聞いたこともある。
ソウル名物である赤い十字架の夜景はそのためである。

しかし最近は、慢性的な教会の飽和状態のため、教会同士の競争が激しく牧師も就職が難しいようだ。
それゆえ、各教会や教団では海外布教・奉仕活動に力を入れ、そのための献金集めも活発だと聞く。
海外布教が財源確保に好都合らしい。拉致された23人の奉仕団を派遣したのは、「セムムル教会」で、
財政的には潤っていたという。


うちの外国語学院のジュニア英語クラスに、孫を通わせている韓国のおじいちゃんがいる。
このじいちゃんは、近くのプロテスタント教会に通っている元大学教授の博識のじいちゃんだ。
時々、孫を待っているこのじいちゃんと雑談していたら、面白い話をしてくれた。

韓国では、特にソウルのこの辺り、つまり江南地区が教会の超激戦区らしい。
地価が高く、富裕層が多いため、教会はこぞってここに建物を建てようとするのだそうだ。
牧師も優秀で人気のある人だけが選ばれるとのこと。そのじいちゃんの教会も、何人もの
優秀な牧師を書類選考とインタビューでふるって、やっととっておきの牧師を選んだのだそうだ。

「ちなみに教会員は何人ですか?」と、じいちゃんに聞いた。
「私のところは小さい教会ですよ。まだ2000人ぐらいしか礼拝に参加していません」

・・・日本とは桁が違った。その近くに、お世辞にも優秀とは言えない私が牧する教会があるが、
毎週の礼拝が、まだ20人から30人とは、とても言えなかった(笑)

この辺の人たちは耳も肥えていて、下手な説教では通じないということだ。(ゲゲゲ・・・)
だからこの辺りに教会をつくるのは至難の業らしい。
まぁ、もう私たちの教会は場所を確保できたからいいのだが・・・


私たち夫婦が、韓国へ最初に来た時に連れて行かれた場所がある。
私たちは、何組かの海外へ向かう韓国人宣教師夫婦と共に、ある墓地に行ったのだ。
そこはもちろん普通の墓地ではない。韓国で殉教したキリスト教宣教師の墓地である。
超教派の墓地なので、それぞれのキリスト教の教派によって区切られていた。
こんなに多くの宣教師たちが殉教し、あるいは病気で亡くなってこの地に骨を埋めたのかと驚いた。

私たちがこの墓地に連れてこられたのは、「殉教を覚悟して任地へ向かいなさい」ということ
だったのだろう。その覚悟は多少なりともしてきたつもりだ。

しかし、痛々しいのは、墓地の端の方に宣教師の子供達の墓が無数にあったことだ。
昔は、まともな薬も治療手段もなかったのだろう。両親が一生懸命に宣教している間に
子供は具合が悪くなっていく。そして見つかった時には手遅れだったのかもしれない。
そんなことを考えた。

これを書きながら、数日前に、沖縄で生まれた次男のことを思う。
月曜日から1週間ほど沖縄に帰るが、また妻と子供を9月の終わりには、
ソウルに連れて帰ることになっている。我が家の幼い子供3人は、
こんな目に遭わせたくないと思った。

牧師や宣教師たちが、それぞれの場所で犠牲になる事はある程度理解できる。
しかし、ボランティアチームは別な話だ。あまりにも危険な地域に出向かせ、
強引な宣教をすることによって、将来のある純粋な若者達が犠牲になることは
何としても避けて欲しいものだ。

先週、朝の祈り会のときに、ある男性がポツリと言った。
「アフガニスタンで捕らわれた人たちの中に、昔からの知り合いの女性がいます。
心配です、祈ってください・・・。」

 彼らの無事と早期救出を心から祈りたい。

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