「リバイバルのために」
実は、今日のお話を書いている時、私には、心の重荷がありました。
何週間前にキム先生に礼拝でのお話しを頼まれた時、
「先生、リバイバルが起こるようなお話をお願いします!」と言われていたからです。
「リバイバル」とは、「信仰復興」という意味です。
リバイバルの話となると、「悔い改め」と「告白」を語らなければなりません。
そして、ほとんどの人は、それを聞きたくはないでしょう。
皆さんは、リバイバルを本当に体験したいでしょうか?
もしリバイバルを体験したいと思われるなら、私は心を込めて、
お話しをさせて頂きたいと思います。でも、本当にリバイバルを体験したいと思えないなら、
私は説教内容を今すぐに変えなければなりません。それは、これから話す話が、
リバイバルを求めない人にとっては苦痛でしかならないからです。
私自身、4年前に自分の中でリバイバルを経験しました。
それがなかったら、私は、決して韓国に来る事はなかったでしょう。
牧師を始めて2年たったくらいの頃、私は壁にぶつかっていました。
自分が、本当に牧師として仕事を続けられるのか不安だった時期がありました。
私は牧師3年目の時に、韓国の祈祷院に来て、1週間祈りました。
しかし、それでも心の不安は消えませんでした。
しかし、ある時いくつかのプロテスタント教会の牧師や伝道者が集まっている
勉強会に参加することにしました。
その中の1つの大きな集会で、ある牧師が前に出てきて話を始めました。
それは、驚くべき内容でした。
彼は、何百人の信徒を抱える教会の牧師でした。彼の大学生の娘が、結婚も婚約もしていないのに、
妊娠してしまったというのです。聖書にある姦淫の罪です。
その牧師夫妻は大変悲しみ、悩み、苦しんでいました。そのことが1ヶ月前に起こり、この1ヶ月間、
ろくに眠れず、食事もできなくて、毎日泣きながら暮らしていたのです。
この話を聞きながら、私は「何故、この人はこんな自分の恥を人前で話すのだろうか?」と
疑問に思っていました。そして、この牧師は大勢の会衆の前で、泣きながらこう言いました。
「私は牧師を辞めます。」
私は、びっくりしました。確かに娘さんのことは良くないことだが、
自分が牧師を辞める必要はないのではないかと思ったからです。
しかし、彼は続けてこういいました。
「聖書には、『自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話が
できるでしょうか。』(汽謄皀3:5)とあるからです。私に牧師の資格はありません。」
私は、それを聞いて強いショックを覚えました。「もし彼がそれで牧師を辞めるのなら、
私などは、とうの昔に牧師をする資格がない。他の多くの牧師も辞める理由があるのではないか」
と思ったのです。
私の目の前にいるこの牧師は、あまりにも「聖なる人」に思えました。私はその時、
立って話を聞いていましたが、急にひどい吐き気に襲われ、立っている事ができず、
しゃがんでしまいました。この「聖なる人」に比べ、自分があまりにも汚れているように思われ、
自分自身に吐き気をもようおしたのです。こんなことは初めてでした。
前に出ていた牧師は泣いていました。その後、そこにいる多くの人たちが彼の周りに集まり、
彼のために祈りました。そして、祈りのうちに彼を励まし、受け入れ、愛している事を
宣言していました。その牧師は神の前で、皆に受け入れられ、赦されて、再び牧師をするようにと
励まされていました。それは非常な感動を与えられた時でした。その場に聖なる神御自身が、
おられるのを痛いほど感じました。その集会で、御言葉の宣言がありました。
『だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。
正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。』ヤコブ5:16
『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、
あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。』汽茱魯1:9
私は、神様の前に罪深い自分自身を強く感じていました。
そして、これからもイエス様に従って行くならば、どうしても今、自分の中にある罪を
赦してもらわなければならないと感じていました。集会の後、人々は、
それぞれ同じ年齢の人たちと集まって祈る事になっていました。
私は、あるグループに入れられて祈りました。
そこにいる人たちは、私はその中で祈り、今まで隠してきた罪を告白し、
イエス様に赦しを求めました。涙が止まりませんでした。私の祈りの後、
そこにいた5,6人の人々は私を抱きながら主の赦しの宣言と愛の言葉を語り、
心から祈ってくれました。
私は、その日、本当に新しく生まれ変わった思いを感じました。
あくる朝、私は嬉しくて、嬉しくて、朝4時に起きて神様に祈っていました。
「主よ、感謝します。あなたは、私の罪を取り除き、真の自由を与えて下さいました。
あぁ~、私はあなたのために何ができるのでしょうか?あなたのためならどんなことでもします。
地の果てまでもあなたのために行きます。どうぞおつかわし下さい。
主よ、ありがとうございます」と、喜びがとまりませんでした。
その時から、私の生活は少しづつ変わっていきました。
どんなことでも神様に隠し事をしない生活に変っていきました。
いつも神様とオープンで透明な、隠し事のない関係でいたいからです。
結局、私の中の重荷は私の罪でした。ダビデは詩篇でこう言っています。
『もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。』
詩篇66:18(新改訳)
そしてイザヤはこう言っています。
『むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。』イザヤ59:2
みなさんは、心に抱えた罪はありませんか?
もしあなたの生活が喜びに満たされていないならば、
もう1度神様に心の中を探ってもらう必要があるでしょう。
何故なら、イエス様はこう言われているからです。
『心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る』マタイ5:8(新共同訳)
心が清くなければ、神を見ることはできません。
私は罪があったので、吐き気をもよおし、神様の前に立っていられなかったのです。
みなさん、心の中に隠れた罪があるのなら、ぜひ信頼できる人と祈りあい、
罪を告白し、神様からの赦しを受け取ってください。
さて、リバイバルの中でもっとも大切なものがあります。それは何でしょうか?
それは「祈り」です。何故なら、イエス様が生きておられる間に最も強調して語られたことだからです。
ヨハネによる福音書の14~16章には、イエス様が十字架につかれる前の
最後の説教が記されています。今で言えば、イエス様の遺言とでも言うべきものでしょう。
つまり、一番大切なことが記されていると考えられる場所です。
この中で、イエス様は6回も「祈りなさい」「求めなさい」とおっしゃっておられるのです。
『わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、
わたしがかなえてあげよう。』ヨハネ14章13,14節
これは、無制限の約束です。イエス様は天の全てさえも与えるとおっしゃっています。
私の妻の母は、クリスチャンで沖縄に住んでいます。そして彼女は1日4回、
私たち家族の事を祈ってくれています。時には何時間も泣きながら祈ってくれるのです。
私が今、牧師でいられるのは、母の祈りのおかげです。
神様は、私たちの祈りによってしか、天の窓を開くことがおできになりません。
教会では、毎年多くの人が新しくイエス様を信じ、バプテスマを受けています。
多くの人は、関わってきた人とか、聖書を教えた人とか、
そんな人たちがバプテスマに導いたと思っているでしょう。
そのことも必要です。しかし、その人たちがいたからバプテスマを受ける人が
現れるのではありません。誰かが、その人のために祈ったから、その人たちは救われたのです。
もし祈りによらない人間的なものであれば、おそらくその人はすぐに教会から離れるでしょう。
イエス様は最後の説教で、『祈りなさい』と言われた時に、『わたしの名によって』祈りなさいと
言われました。しかも、6回のうち5回にそのことが必ず付け加えてあるのです。
どういう意味でしょうか?
イエスの名によって祈らなければ、私たち罪人の祈りは聞かれないからです。
神は聖なる方で、罪のないお方です。そのお方と罪の私たち人との間には、
越えられない壁があります。神様は罪人の言うことを聞くことができないのです。
その壁を越えて、神様の答えを得るには、イエス様を信じ、罪赦されたものの祈りが必要なのです。
その人の祈りだけが、イエス様の名前によって、天国の宝物庫の扉を開く鍵を持っているのです。
マルコによる福音書6章5,6節にはこうあります。
『そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、
そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
そして、人々の不信仰に驚かれた。』(新共同訳)
ここでは、人々が不信仰で、イエス様を信じないゆえに奇跡をなされなかったとあります。
人々はイエス様を信ずる事ができず、その不信仰のゆえにイエス様は助けてあげたくとも、
助けることができず、奇跡を起こせなかったのです。
今、イエス様は私たちの信仰ある祈りを必要としています。あなたの祈りが必要なのです。
思い出してください。イエス様は、
『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために
働き手を送ってくださるように祈りなさい。』ルカによる福音書10章2節(新改訳)
とおっしゃいました。
主は、たくさんの祝福と恵みを、今すぐにでも与えようと待ち構えておられるのにも関わらず、
誰も祈り求めないので与えることができないというのです。
私と妻は今週の朝と夜、日本語教師の方々と、この教会のために祈ってきました。
昨日の夜も祈るはずでしたが、帰るのが遅く、色々用事があって遅くなり、疲れて寝てしまいました。
しかし、主は私を夜2時に起こされ、「祈らなければならない」と私の心にささやかれました。
私と妻は心を込めて朝方まで祈りました。神様は日本語教師の皆さんと、
この教会1人1人の皆さんを愛しており、私たちに「祈りなさい」と命じられたのです。
私たちは、日本語教師の皆さんと教会の上にリバイバルが起こるまで祈ることを止めません。
主が望んでおられることだからです。主は私たちの祈りを必要としているのです。
はじめにお話ししたように、いま私たちが主の前に罪を悔い改め、告白するならば、
祈り求めるものは全て与えられます。何故でしょうか?私たちの罪が赦され、
罪、憎しみ、妬み、プライドを捨てることによって、
人々とお互いに本当に愛し合うことができるからです。
『愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、
神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。
わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、
この方がわたしたちに命じられたように、
互いに愛し合うことです。』 汽茱魯佑亮蟷3:21-23(新共同訳)
最後にヨハネによる福音書16章23,24節をお読みして終わりた
実は、今日のお話を書いている時、私には、心の重荷がありました。
何週間前にキム先生に礼拝でのお話しを頼まれた時、
「先生、リバイバルが起こるようなお話をお願いします!」と言われていたからです。
「リバイバル」とは、「信仰復興」という意味です。
リバイバルの話となると、「悔い改め」と「告白」を語らなければなりません。
そして、ほとんどの人は、それを聞きたくはないでしょう。
皆さんは、リバイバルを本当に体験したいでしょうか?
もしリバイバルを体験したいと思われるなら、私は心を込めて、
お話しをさせて頂きたいと思います。でも、本当にリバイバルを体験したいと思えないなら、
私は説教内容を今すぐに変えなければなりません。それは、これから話す話が、
リバイバルを求めない人にとっては苦痛でしかならないからです。
私自身、4年前に自分の中でリバイバルを経験しました。
それがなかったら、私は、決して韓国に来る事はなかったでしょう。
牧師を始めて2年たったくらいの頃、私は壁にぶつかっていました。
自分が、本当に牧師として仕事を続けられるのか不安だった時期がありました。
私は牧師3年目の時に、韓国の祈祷院に来て、1週間祈りました。
しかし、それでも心の不安は消えませんでした。
しかし、ある時いくつかのプロテスタント教会の牧師や伝道者が集まっている
勉強会に参加することにしました。
その中の1つの大きな集会で、ある牧師が前に出てきて話を始めました。
それは、驚くべき内容でした。
彼は、何百人の信徒を抱える教会の牧師でした。彼の大学生の娘が、結婚も婚約もしていないのに、
妊娠してしまったというのです。聖書にある姦淫の罪です。
その牧師夫妻は大変悲しみ、悩み、苦しんでいました。そのことが1ヶ月前に起こり、この1ヶ月間、
ろくに眠れず、食事もできなくて、毎日泣きながら暮らしていたのです。
この話を聞きながら、私は「何故、この人はこんな自分の恥を人前で話すのだろうか?」と
疑問に思っていました。そして、この牧師は大勢の会衆の前で、泣きながらこう言いました。
「私は牧師を辞めます。」
私は、びっくりしました。確かに娘さんのことは良くないことだが、
自分が牧師を辞める必要はないのではないかと思ったからです。
しかし、彼は続けてこういいました。
「聖書には、『自分の家庭を治めることを知らない者に、どうして神の教会の世話が
できるでしょうか。』(汽謄皀3:5)とあるからです。私に牧師の資格はありません。」
私は、それを聞いて強いショックを覚えました。「もし彼がそれで牧師を辞めるのなら、
私などは、とうの昔に牧師をする資格がない。他の多くの牧師も辞める理由があるのではないか」
と思ったのです。
私の目の前にいるこの牧師は、あまりにも「聖なる人」に思えました。私はその時、
立って話を聞いていましたが、急にひどい吐き気に襲われ、立っている事ができず、
しゃがんでしまいました。この「聖なる人」に比べ、自分があまりにも汚れているように思われ、
自分自身に吐き気をもようおしたのです。こんなことは初めてでした。
前に出ていた牧師は泣いていました。その後、そこにいる多くの人たちが彼の周りに集まり、
彼のために祈りました。そして、祈りのうちに彼を励まし、受け入れ、愛している事を
宣言していました。その牧師は神の前で、皆に受け入れられ、赦されて、再び牧師をするようにと
励まされていました。それは非常な感動を与えられた時でした。その場に聖なる神御自身が、
おられるのを痛いほど感じました。その集会で、御言葉の宣言がありました。
『だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい。
正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします。』ヤコブ5:16
『自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、
あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。』汽茱魯1:9
私は、神様の前に罪深い自分自身を強く感じていました。
そして、これからもイエス様に従って行くならば、どうしても今、自分の中にある罪を
赦してもらわなければならないと感じていました。集会の後、人々は、
それぞれ同じ年齢の人たちと集まって祈る事になっていました。
私は、あるグループに入れられて祈りました。
そこにいる人たちは、私はその中で祈り、今まで隠してきた罪を告白し、
イエス様に赦しを求めました。涙が止まりませんでした。私の祈りの後、
そこにいた5,6人の人々は私を抱きながら主の赦しの宣言と愛の言葉を語り、
心から祈ってくれました。
私は、その日、本当に新しく生まれ変わった思いを感じました。
あくる朝、私は嬉しくて、嬉しくて、朝4時に起きて神様に祈っていました。
「主よ、感謝します。あなたは、私の罪を取り除き、真の自由を与えて下さいました。
あぁ~、私はあなたのために何ができるのでしょうか?あなたのためならどんなことでもします。
地の果てまでもあなたのために行きます。どうぞおつかわし下さい。
主よ、ありがとうございます」と、喜びがとまりませんでした。
その時から、私の生活は少しづつ変わっていきました。
どんなことでも神様に隠し事をしない生活に変っていきました。
いつも神様とオープンで透明な、隠し事のない関係でいたいからです。
結局、私の中の重荷は私の罪でした。ダビデは詩篇でこう言っています。
『もしも私の心にいだく不義があるなら、主は聞き入れてくださらない。』
詩篇66:18(新改訳)
そしてイザヤはこう言っています。
『むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、
お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ。』イザヤ59:2
みなさんは、心に抱えた罪はありませんか?
もしあなたの生活が喜びに満たされていないならば、
もう1度神様に心の中を探ってもらう必要があるでしょう。
何故なら、イエス様はこう言われているからです。
『心の清い人は幸いである。その人たちは神を見る』マタイ5:8(新共同訳)
心が清くなければ、神を見ることはできません。
私は罪があったので、吐き気をもよおし、神様の前に立っていられなかったのです。
みなさん、心の中に隠れた罪があるのなら、ぜひ信頼できる人と祈りあい、
罪を告白し、神様からの赦しを受け取ってください。
さて、リバイバルの中でもっとも大切なものがあります。それは何でしょうか?
それは「祈り」です。何故なら、イエス様が生きておられる間に最も強調して語られたことだからです。
ヨハネによる福音書の14~16章には、イエス様が十字架につかれる前の
最後の説教が記されています。今で言えば、イエス様の遺言とでも言うべきものでしょう。
つまり、一番大切なことが記されていると考えられる場所です。
この中で、イエス様は6回も「祈りなさい」「求めなさい」とおっしゃっておられるのです。
『わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、
父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、
わたしがかなえてあげよう。』ヨハネ14章13,14節
これは、無制限の約束です。イエス様は天の全てさえも与えるとおっしゃっています。
私の妻の母は、クリスチャンで沖縄に住んでいます。そして彼女は1日4回、
私たち家族の事を祈ってくれています。時には何時間も泣きながら祈ってくれるのです。
私が今、牧師でいられるのは、母の祈りのおかげです。
神様は、私たちの祈りによってしか、天の窓を開くことがおできになりません。
教会では、毎年多くの人が新しくイエス様を信じ、バプテスマを受けています。
多くの人は、関わってきた人とか、聖書を教えた人とか、
そんな人たちがバプテスマに導いたと思っているでしょう。
そのことも必要です。しかし、その人たちがいたからバプテスマを受ける人が
現れるのではありません。誰かが、その人のために祈ったから、その人たちは救われたのです。
もし祈りによらない人間的なものであれば、おそらくその人はすぐに教会から離れるでしょう。
イエス様は最後の説教で、『祈りなさい』と言われた時に、『わたしの名によって』祈りなさいと
言われました。しかも、6回のうち5回にそのことが必ず付け加えてあるのです。
どういう意味でしょうか?
イエスの名によって祈らなければ、私たち罪人の祈りは聞かれないからです。
神は聖なる方で、罪のないお方です。そのお方と罪の私たち人との間には、
越えられない壁があります。神様は罪人の言うことを聞くことができないのです。
その壁を越えて、神様の答えを得るには、イエス様を信じ、罪赦されたものの祈りが必要なのです。
その人の祈りだけが、イエス様の名前によって、天国の宝物庫の扉を開く鍵を持っているのです。
マルコによる福音書6章5,6節にはこうあります。
『そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、
そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。
そして、人々の不信仰に驚かれた。』(新共同訳)
ここでは、人々が不信仰で、イエス様を信じないゆえに奇跡をなされなかったとあります。
人々はイエス様を信ずる事ができず、その不信仰のゆえにイエス様は助けてあげたくとも、
助けることができず、奇跡を起こせなかったのです。
今、イエス様は私たちの信仰ある祈りを必要としています。あなたの祈りが必要なのです。
思い出してください。イエス様は、
『実りは多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために
働き手を送ってくださるように祈りなさい。』ルカによる福音書10章2節(新改訳)
とおっしゃいました。
主は、たくさんの祝福と恵みを、今すぐにでも与えようと待ち構えておられるのにも関わらず、
誰も祈り求めないので与えることができないというのです。
私と妻は今週の朝と夜、日本語教師の方々と、この教会のために祈ってきました。
昨日の夜も祈るはずでしたが、帰るのが遅く、色々用事があって遅くなり、疲れて寝てしまいました。
しかし、主は私を夜2時に起こされ、「祈らなければならない」と私の心にささやかれました。
私と妻は心を込めて朝方まで祈りました。神様は日本語教師の皆さんと、
この教会1人1人の皆さんを愛しており、私たちに「祈りなさい」と命じられたのです。
私たちは、日本語教師の皆さんと教会の上にリバイバルが起こるまで祈ることを止めません。
主が望んでおられることだからです。主は私たちの祈りを必要としているのです。
はじめにお話ししたように、いま私たちが主の前に罪を悔い改め、告白するならば、
祈り求めるものは全て与えられます。何故でしょうか?私たちの罪が赦され、
罪、憎しみ、妬み、プライドを捨てることによって、
人々とお互いに本当に愛し合うことができるからです。
『愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、
神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます。
わたしたちが神の掟を守り、御心に適うことを行っているからです。
その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、
この方がわたしたちに命じられたように、
互いに愛し合うことです。』 汽茱魯佑亮蟷3:21-23(新共同訳)
最後にヨハネによる福音書16章23,24節をお読みして終わりた