『この苦しみはなぜ?』
石原都知事が「天罰」発言をして世論から非難を浴びた。
彼の考えは典型的な「因果応報」の考え方だ。
非難を浴びて1日で謝罪している。
アメリカの女子バスケットボール選手も、「震災は真珠湾の報いだ」
などと言って非難を浴び、謝罪したそうだ。
この二人の考えは、苦しみと悲しみ、絶望の中にある人の心の傷に、
さらに塩を塗りこむようなものである。どのような事情があっても
口にしてはならない言葉だろう。
しかし、今の政治家はどうなっているのだろうか。目を覆うばかりだ。
ある人が興味深いこと、というより「きつい」言葉を書いているのを読んだ。
それは、「日本の政治家のレベルが低いのは、今の国民のレベルが
そのレベルだからだ。政治家はその国民のレベルの人々しか出てこない・・・」
強烈な言葉である。しかし、この言葉にどれだけの人が反論できるだろうか?
石原知事の言葉は言うまでもなく論外である。多くの人々が憤慨するのは当然だ。
しかし、その人を自分たちのトップとして3期も選んでいた都民の良識も問われるべきである。
今の日本の政治もそうである。
しかし、批判は常に簡単だ。人の揚げ足をとればいいだけだからだ。
みな、自分は関係ないように振舞う。その繰り返しをしているにすぎない。
そこに希望はない。だからここでは非難をしない。
では、なぜこのような苦しみがあるのだろうか?誰かのせいなのだろうか?
「人々は神などいない、神がおられるならばこんなこと起こるはずがない」と叫ぶ。
彼らの心情を思い見れば当然のことである。
人は生まれ、死んでいく。一生の間、楽しみ、喜んだとしても、同じくらい、
いや、それ以上に悲しみと苦しみと涙が伴う。
歴史上、この問題を解き明かそうと、多くの哲学者や思想家たちが挑戦した。
だが、納得できる答えはでてこなかった。
そうして人々は、宗教にその答えを求めるようになった。
それでは、宗教はその答えを与えたのだろうか。これも十分ではないだろう。
多くの宗教がやはり「因果応報」の考え方を形を変えて持ってきただけだからである。
私は、旧約聖書のヨブ記に目を留めるべき時だと思う。
聖書の神は、苦しみの意味について、大切なことを教えている。
ヨブは正しい人であった。神様がサタンに向かってこう言われたほどであった。
「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、
悪に遠ざかる者の世にいないことを気づいたか。」(ヨブ1:8)
しかし、サタンは反論する。「ヨブが神を信じ従っているのは、
神が守っておられるからではないか・・・。その守りを取られれば、
ヨブはあなたをのろう」と。
そして、サタンはヨブの財産の全てを散らし、ヨブの子供たちの命を全て奪い、
彼自身の体にも耐え難い、極限とも言える病を与えた。
このヨブ記は、日本で苦しんでおられる方に慰めと励ましを与える
貴重なメッセージではないかと思う。ここだけでは書けないので、
時間をかけて何回かに分けて書こうと思う。
ここでのポイントは、サタンの存在である。悪魔とも呼ばれるサタンが
このヨブの災いの元凶であるということだ。実はここまでは、
他の宗教でも理解しているところがある。
問題は、そのサタンの働きを「人間の罪の結果」として、
簡単に考えてしまうところにある。そのはやまった、
誤った思想は、残念ながらクリスチャンの中でも見られる。
そのような考えの帰結するところは、結局、「原因は人間の罪だ」とする。
ここにも「因果応報」の考えが出てくる。
このように考える人の「神」は、弱い存在になってしまう。
サタンの業に対して何も手出しができない「無力な小さな神」として描かれてしまう。
ヨブ記には、神が全てをコントロールされていることがはっきりと示されている。
「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない。」
ヨブ記1:12
ノアの箱舟の大洪水はサタンがしたのではない。神が裁きとしてなされたのである。
またモーセの時代、だれが太陽の動きを止めたのだろうか。サタンにそんなことはできない。
神の神権を冒すことなど、できはしないのである。
また聖書は「災いは良き者の上にも悪しき者の上にもふりかかる」と記している。
この言葉は真実である。聖書の中で、心から神に従っている人が苦しめられ、
殺されている例は挙げるまでもない。旧約聖書の預言者たち、バプテスマのヨハネ、
12弟子たちの最後、初代教会の人々への激しい迫害。
それらを見ながら、「信じれば全てのことから救われる」とか、
「この世の災いから逃れられる」などと言う発言は、
世の中の薄っぺらな「ご利益宗教」と同じである。
聖書のどこにそんなことが書いてあるのだろうか。
主イエスは言われた。
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」ヨハネ16:33
信じる者もなやみがあり、苦しみがある。
この現実の中に、主は、生きる力を与えると言われているのだ。
「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう」マタイ24:9
ヨブは、サタンに苦しめられるのを神によって許された人物として、
我々の前に明確に持ち出されている。
ヨブは、今回の日本の大震災に遭われた人々のように、
財産も伴侶も子供たちも全てを奪われ、想像を絶する苦しみの中にいた。
ヨブの友人たちは慰めにやってきたが、これらの苦悩を、
彼の罪深い生活の報いだと見なさせようとした。友人たちはヨブを神の前に罪ある者と決めつけ、
刑罰に値すると見なして、彼につらい思いをさせただけでなく、「神」ご自身を間違って描写した。
現在もヨブの友人たちが多くいる。友人の顔をして本人を苦しめるのである。
そのような考え方が、多くの宗教、そして教会の中からも出てくるのは本当に残念である。
それは石原知事と、プロバスケットの選手の「天罰発言」となんら違いがない。
では、神はなぜ人々の苦しむのを見ておられるだけと感じるのだろうか?
これは聖書全体を貫く中心思想に関係してくる。また私たちの通常理解では、
想像の範囲外にある。そのことは、次回に書き綴りたいと思う。
しかし、最後にヨブ記の終わりに記されている、ヨブ自身の信仰告白を見ていきたい。
「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、
あなたがたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、計り難い事を述べました。
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。ヨブ42:2-6
ヨブは、「なぜこの苦しみが?」という答えを神様から与えられなかった。
しかしただ、宇宙のすべてを統べ治めておられる全能の主の知恵と知識、力の前には、
いかに自分の考えが浅はかで小さなものであるかを思い知らされ、主に信頼し、
従うことだけが唯一の道であると悟るのである。
ヨブの疑問は答えられなかった。しかしその疑問はもうすでに疑問ではなくなり、
彼の中から消え去ったのであった。
次回に続く
石原都知事が「天罰」発言をして世論から非難を浴びた。
彼の考えは典型的な「因果応報」の考え方だ。
非難を浴びて1日で謝罪している。
アメリカの女子バスケットボール選手も、「震災は真珠湾の報いだ」
などと言って非難を浴び、謝罪したそうだ。
この二人の考えは、苦しみと悲しみ、絶望の中にある人の心の傷に、
さらに塩を塗りこむようなものである。どのような事情があっても
口にしてはならない言葉だろう。
しかし、今の政治家はどうなっているのだろうか。目を覆うばかりだ。
ある人が興味深いこと、というより「きつい」言葉を書いているのを読んだ。
それは、「日本の政治家のレベルが低いのは、今の国民のレベルが
そのレベルだからだ。政治家はその国民のレベルの人々しか出てこない・・・」
強烈な言葉である。しかし、この言葉にどれだけの人が反論できるだろうか?
石原知事の言葉は言うまでもなく論外である。多くの人々が憤慨するのは当然だ。
しかし、その人を自分たちのトップとして3期も選んでいた都民の良識も問われるべきである。
今の日本の政治もそうである。
しかし、批判は常に簡単だ。人の揚げ足をとればいいだけだからだ。
みな、自分は関係ないように振舞う。その繰り返しをしているにすぎない。
そこに希望はない。だからここでは非難をしない。
では、なぜこのような苦しみがあるのだろうか?誰かのせいなのだろうか?
「人々は神などいない、神がおられるならばこんなこと起こるはずがない」と叫ぶ。
彼らの心情を思い見れば当然のことである。
人は生まれ、死んでいく。一生の間、楽しみ、喜んだとしても、同じくらい、
いや、それ以上に悲しみと苦しみと涙が伴う。
歴史上、この問題を解き明かそうと、多くの哲学者や思想家たちが挑戦した。
だが、納得できる答えはでてこなかった。
そうして人々は、宗教にその答えを求めるようになった。
それでは、宗教はその答えを与えたのだろうか。これも十分ではないだろう。
多くの宗教がやはり「因果応報」の考え方を形を変えて持ってきただけだからである。
私は、旧約聖書のヨブ記に目を留めるべき時だと思う。
聖書の神は、苦しみの意味について、大切なことを教えている。
ヨブは正しい人であった。神様がサタンに向かってこう言われたほどであった。
「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、
悪に遠ざかる者の世にいないことを気づいたか。」(ヨブ1:8)
しかし、サタンは反論する。「ヨブが神を信じ従っているのは、
神が守っておられるからではないか・・・。その守りを取られれば、
ヨブはあなたをのろう」と。
そして、サタンはヨブの財産の全てを散らし、ヨブの子供たちの命を全て奪い、
彼自身の体にも耐え難い、極限とも言える病を与えた。
このヨブ記は、日本で苦しんでおられる方に慰めと励ましを与える
貴重なメッセージではないかと思う。ここだけでは書けないので、
時間をかけて何回かに分けて書こうと思う。
ここでのポイントは、サタンの存在である。悪魔とも呼ばれるサタンが
このヨブの災いの元凶であるということだ。実はここまでは、
他の宗教でも理解しているところがある。
問題は、そのサタンの働きを「人間の罪の結果」として、
簡単に考えてしまうところにある。そのはやまった、
誤った思想は、残念ながらクリスチャンの中でも見られる。
そのような考えの帰結するところは、結局、「原因は人間の罪だ」とする。
ここにも「因果応報」の考えが出てくる。
このように考える人の「神」は、弱い存在になってしまう。
サタンの業に対して何も手出しができない「無力な小さな神」として描かれてしまう。
ヨブ記には、神が全てをコントロールされていることがはっきりと示されている。
「見よ、彼のすべての所有物をあなたの手にまかせる。ただ彼の身に手をつけてはならない。」
ヨブ記1:12
ノアの箱舟の大洪水はサタンがしたのではない。神が裁きとしてなされたのである。
またモーセの時代、だれが太陽の動きを止めたのだろうか。サタンにそんなことはできない。
神の神権を冒すことなど、できはしないのである。
また聖書は「災いは良き者の上にも悪しき者の上にもふりかかる」と記している。
この言葉は真実である。聖書の中で、心から神に従っている人が苦しめられ、
殺されている例は挙げるまでもない。旧約聖書の預言者たち、バプテスマのヨハネ、
12弟子たちの最後、初代教会の人々への激しい迫害。
それらを見ながら、「信じれば全てのことから救われる」とか、
「この世の災いから逃れられる」などと言う発言は、
世の中の薄っぺらな「ご利益宗教」と同じである。
聖書のどこにそんなことが書いてあるのだろうか。
主イエスは言われた。
「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」ヨハネ16:33
信じる者もなやみがあり、苦しみがある。
この現実の中に、主は、生きる力を与えると言われているのだ。
「そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう」マタイ24:9
ヨブは、サタンに苦しめられるのを神によって許された人物として、
我々の前に明確に持ち出されている。
ヨブは、今回の日本の大震災に遭われた人々のように、
財産も伴侶も子供たちも全てを奪われ、想像を絶する苦しみの中にいた。
ヨブの友人たちは慰めにやってきたが、これらの苦悩を、
彼の罪深い生活の報いだと見なさせようとした。友人たちはヨブを神の前に罪ある者と決めつけ、
刑罰に値すると見なして、彼につらい思いをさせただけでなく、「神」ご自身を間違って描写した。
現在もヨブの友人たちが多くいる。友人の顔をして本人を苦しめるのである。
そのような考え方が、多くの宗教、そして教会の中からも出てくるのは本当に残念である。
それは石原知事と、プロバスケットの選手の「天罰発言」となんら違いがない。
では、神はなぜ人々の苦しむのを見ておられるだけと感じるのだろうか?
これは聖書全体を貫く中心思想に関係してくる。また私たちの通常理解では、
想像の範囲外にある。そのことは、次回に書き綴りたいと思う。
しかし、最後にヨブ記の終わりに記されている、ヨブ自身の信仰告白を見ていきたい。
「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、
あなたがたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。
それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、計り難い事を述べました。
『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。
それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。ヨブ42:2-6
ヨブは、「なぜこの苦しみが?」という答えを神様から与えられなかった。
しかしただ、宇宙のすべてを統べ治めておられる全能の主の知恵と知識、力の前には、
いかに自分の考えが浅はかで小さなものであるかを思い知らされ、主に信頼し、
従うことだけが唯一の道であると悟るのである。
ヨブの疑問は答えられなかった。しかしその疑問はもうすでに疑問ではなくなり、
彼の中から消え去ったのであった。
次回に続く
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