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「異言と聖霊のバプテスマ」ついて以前から聞かれることが多かったので、
私の理解していることを書きたいと思います。

最初に「異言と聖霊のバプテスマ」については、教派による聖書理解の違いがあります。
基本的に私の教会では、「聖霊」についてしっかり教えられ、
その上で「聖霊を受ける」と信じてバプテスマを受けられた方は、
聖霊のバプテスマを受けているものと理解しています。


『ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」』使徒行伝2:38,39


私たちは、聖書の言葉をそのまま受け入れます。
聖霊のバプテスマは、上記のペトロの言葉を信じて従ったものは皆受けるものです。

もう一つ付け加えますと、使徒行伝の中で「ヨハネの悔い改めのバプテスマ」だけを受けた人々が、
聖霊のことを聞いて、霊のバプテスマを受けた時の状況があります。


『「信じたとき、聖霊を受けましたか。」と尋ねると、彼らは、「いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした。」と答えた。「では、どんなバプテスマを受けたのですか。」と言うと、「ヨハネのバプテスマです。」と答えた。そこで、パウロは、「ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです。」と言った。これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。』使徒行伝19:2-6


ある方は、異言を語ることを聖霊のバプテスマを受けた証だと理解されていますが、
それは、半分当たって、半分外れています。
上の聖句では「異言を語ったり、預言をしたり」とあり、必ず異言だけを語るとは記されていません。

また、パウロは『私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが・・・』と言ったのであって、「話せるようにしなさい」とか、「話すのが必要だ」とも語っていません。
むしろ異言に関しては、慎重に、誤解されないように語っているのが印象的です。

以上のことから、異言だけを聖霊のバプテスマを受けた証拠と見なすのは、聖書から見ていくと
難しいことが分かります。


さらに言うと、聖書では異言の賜物だけを特別扱いしていません。
そのように聖書には記されていないからです。もちろん、そのように捉えておられる方々が
いらっしゃることは存じておりますし、そのお考えをあえて否定するつもりもありません。
それぞれの解釈の違いだからです。ここでは「聖書にこのように書いてある」としか言えません。

でもただ、一点申し上げたく思うのは、全ての人が異言を話さないということです。


『12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。12:28 そして、神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。12:29 みなが使徒でしょうか。みなが預言者でしょうか。みなが教師でしょうか。みなが奇蹟を行なう者でしょうか。12:30 みながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。12:31 あなたがたは、よりすぐれた賜物を熱心に求めなさい。また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。』汽灰螢鵐12:27-31


パウロは、それぞれの人に与えられる賜物は違うということも語っています。
パウロが強調しているのは、イエス・キリストにある各自の働きの違いです。
その意味で、自分の霊のための異言ではなく、主に仕えるため、また他の人々に仕えるために
与えられた異言、またその他の賜物を大切なものとして強調しています。

そしてこの後に、最も優れた道である「愛」を持つように薦めていることは、
説明するまでもないことでしょう。


私は異言を話すかどうかは、公にしていません。
話すにせよ、話さないにせよ、今の時点でそれを言うべきことではないと考えています。

それは過去に、自分が受けた他の賜物について、不用意に他人に話したことで、
その人に躓きを与えたからです。これはその人に対する「愛」と配慮が欠けていた例です。
「異言を話せる」という方は、そのように考えたことがあるでしょうか。

私は牧師ですので、その点は気をつけすぎてしすぎることはないと思っています。

パウロの言わんとしていることをしっかりと理解するならば、
「愛」以外の何か特定の賜物を強調することは、危険ではないだろうかと考えます。


そして付け加えて申し上げるならば、私たちは聖書から、
この異言が他国の言葉であると信じています。


『2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いてくるような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。2:3 また、炎のような分かれた舌が現われて、ひとりひとりの上にとどまった。2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』使徒行伝2:1-4

『たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。』汽灰螢鵐13:1

『律法にこう書いてあります。「『異国の言葉を語る人々によって、/異国の人々の唇で/わたしはこの民に語るが、/それでも、彼らはわたしに耳を傾けないだろう』/と主は言われる。」』汽灰螢鵐14:21

ここで語られているのは、2種類の異言です。
他国の言葉、そして御使いの言葉です。それ以外には、悪霊の言葉しか聖書には出てきません。

異言は、神様がその人の霊性を高める賜物です。
同時に、理性的、合理的なものであり、解き明かしの方が共におられるならば、
未信者に福音を伝える有効な手段だと信じます。


最後に、私が一番気をつけていることを申し上げます。それは「聖書には何とかいてあるか」です。
ベレヤの人々についてルカは、使徒行伝17:11でこう記しています。


『ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。』


さきほど申し上げましたように、私は異言を否定しません。それは、明らかに神様の賜物だからです。
しかし、その理解の仕方、用い方に関しては「聖書のみ」の姿勢が特に重要であると思います。


以上、簡単に書きました。異言を大切に思われておられる方で、
これをお読みになり、お気を悪くされたら申し訳なく思います。
また「違うのではないか」と思われるのであれば、ぜひ質問してくださればと思います。

皆さん、また訪問してくださいね。(^▽^;)